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MasashiSalvador(在日東京人) / 茶道 / 音楽/ 映画/ 雑記

中島晴矢の個展「ペネローペの境界」を見て

中島晴矢の個展、ペネローペの境界、タイトルのメタファーを理解するのには深い教養が必要であるようだった。 ペネローペはオデュッセウスの妻、夫の留守中に108人もの求婚者が押し寄せるが、彼女は変装等を駆使して貞淑を貫く。彼女は求婚者に対して、自分が織っている織物(死体を包むための織物)が織り上がった時、求婚者のうちから1人を選ぶと宣言する。 ペネローペは昼織った織物を夜になると解くことを繰り返していた。永遠に織り上がらないようにと。絶えまなく繰り返されるが、永遠に終わらないことを望まれているもののメタファーとしての織物。神話では彼女の企みは3年で露見してしまい。彼女は結局の所、求婚者から1人を選ばなければならないことになるが、そこへ夫であるオデュッセウスが帰還する。

当日作品を見ただけではメタファーを理解するのが困難だったが、境界に関する彼の考え方を作品に見ることができた。 その作品とは、「MAPPA」を下敷きにした国旗のシリーズ、融解した各国国旗が描かれた作品である。 一目見るだけで、融解し、絶えず変化する曖昧な境界を強く意識させられる作品だった。日本と中国、アメリカとイラン、フランスとパキスタンの国旗が混ざり合った小作品と、各国国旗が入り乱れて溶け合って描かれた大作品が展示されていた。 底に描かれた融解した国旗は、旗としての機能を失い、ただの色彩と成り果てる。 青は自由、白は平等、赤は博愛、神聖さを司る緑、太陽の赤、共産主義の赤、星々が表す独立性、陰陽、太極、各々の色に込められた意味は、色を知覚する観察者の立ち位置によって大きく変化する。

色彩の違いは境界線を生み出す。意図せずとも、知覚の本質的な機能として、境界は明確に意識される。私達の知覚が色彩の境界線を超えると、その背後では色彩の意味合いが転換されている。今私は赤の中にいる。私は日の丸の赤の下にいるのか、五星紅旗の赤のもとにいるのか。旗としての意味合いを意識する度に、自分の立ち位置がぐらつくのを感じる。

観察をする私は、一体全体この作品の中のどこに立っているのだろうか。どこを泳いでいるのか。私の周りの色彩の意味合いは、どの意味合いなのだろうか。きっとそれは私が決めなければいけない。強い明確な意志はなくてもよい、ただだそこに存在する以上は、どこかで色彩の意味を決めなければいけない。 意味合いを曖昧なままにすることは思考停止になる。ある意味で生を放棄することになるのだ。

作品に描かれているのは、絶え間なく変化する状態の一時のスナップショットであるから、実際は境界は常に揺らめいている。いまこの瞬間、私はどの境界の内側にいるのだろうか。私は赤に囲まれている。私が生まれ育った日本の、国旗である日の丸の赤だ、しかし、私が知らない、私が意識していないだけで、遠目にみればそれは星条旗の赤い部分であるかもしれない。日の丸だと思って赤と白を眺めていたら、実はそれは星条旗の一部分かもしれないのだ。赤い部分を遠く遠く歩いて行くと、いつの間にか黄色い部分が生じていて、気づいたらそこは五星紅旗かもしれないのだ。今この瞬間にどの境界の中にいるかを知覚することはできないから、意味を決めようともがいても結局はどこにいるか明確に定まるわけではないのだ。色合いの意味を定めようとすると、再現のない誤りにつながってしまうのだ。

ただ社畜として暮らしていると忘れがちであるが、 そういうことを強く意識させられる。嫌でも意識させられる。

「現代は、無数のレヴェルで境界線が引かれ、ほどかれ、また引き直され……という永久運動にさらされています。その上で、様々に偏在する「ペネローペの境界」を、多元的に提示する——それが本個展のテーマです。」

私達が生まれたのと同じ時期に、国旗が整然と並べられている(かのように)、もしくはイデオロギーごとに色が明確に定まっている(かのように)地図はガラガラと崩壊した。こういう書き方が陳腐であることは認識しつつも、思想や成長モデルに縛られた地図はドロドロに溶けてしまった。溶け始めは笑ってみていられたけれど,テクノロジーの進歩によって、融解が実際の生に影響し始めた時に、切実なものとして境界線のゆらめきが顕在化した。 社会の中に生きること=知覚することは、個々人に絶え間ない境界線の引き直しを要求する。 境界線の引き直しには大きなエネルギーが必要だ。私達はそれほど強くないから、そういった引き直しを諦めたくなる、思考停止をしがちになる。薄くとも何かの思想に寄りかかりながら、時には他人の話に寄りかかりながら、変化する境界を自覚しつつも、偽物の仮初めの硬い境界をこしらえて、その中で生きていこうとする。自分の現在位置を確立するために必要な操作だ。そうだ、自分の周りは鮮やかな赤なのだ、そうさ、自分の周りは誇りに満ち溢れているのだ、と。 時たま、それが仮初めのものであることを自覚させられる。私達の知覚に揺さぶりをかける何か、例えば今回展示されていたような美術作品、影響力の大きな発言、巨大な事件、時折、私達はそういう目覚めの契機に遭遇する。 その度に、私達はグロテスクに変化する境界線、活き活きと変化する境界を目にすることになる。そしてそれを捉え直す。捉え直された境界はまた融解し、認識の彼方へと消える。局所的な色は分かるが、大局的な位置は判らない。常に不安だ。

テクノロジーによる情報伝達速度の刷新により、大局的な整然とした地図の中に生きられる時代はおそらくもう二度と訪れない。私達が荒廃を望まない限りは、文明荒廃後の世界まで、二度と。この時代を生きていくために、絶え間ない境界の変化に対して、私達は仮初めの、偽りの境界を築いては壊し、築いては壊しを繰り返さなければならない。そして自分の現在位置の確認のため、終わりない/絶え間ない変化に仮初めの境界を作り出すための文脈と設定を求めて生きていくしかない。 それへの欲求を封じ込めることは、現在位置を捨てること、ある意味で生を放棄することにつながるのだから。

融解した国旗を描くのは非常にシンボリックだった。実世界ではありとあらゆる箇所で、こういう融解が起こっているのだ。楽しみながら生きていくしかないのだ。

3,4回中島晴矢の個展を見させてもらって、「同級生の中島晴矢の個展を見に行く」という行為が「中島晴矢の個展を見に行く」行為に変わった。 これからも彼の作品を楽しみに生きていきたい。