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MasashiSalvador(在日東京人) / 茶道 / 音楽/ 映画/ 雑記

ソフトウェア化する世界に添えて (1)

マーク・アンドリーセンの "Software is eating the world"というパンチラインが大好きだ。個人のレベルで生理的に喜んで受け入れるにしろ、 嫌悪感を持って見ないふりをしようとも、合理性がある限り不可逆的に世界はソフトウェア化するだろうと思っている。 しかし「なぜそう思うの?」と友人や知人に問われたときに理路整然とした理由を返せていない自分がいるのも確かだ(元々人に説明するのは得意でないし、好きではないのだが) 少し整理を試みるためにブログに書き留めておこうと思う。

世界がソフトウェア化するとは?

定義は何なのか、具体的には何が起こりうるし、何が起こっているのか?答えられないと恥ずかしいように思う。 幾つかの現象に裏付けされた概念を統合した言葉がソフトウェア化であると思うが、下記のように整理できると思う 箇条書きをする前に、一応「ソフトウェア」の辞書的定義を確認しておく

kotobank.jp

コンピューターを動作させるためのプログラムや命令を記述したデータのまとまり

software | translate English to Japanese: Cambridge Dictionary

programs that you use to make a computer do different things

ケンブリッジの英英訳はなんかしっくり来ませんね...コトバンクの定義のほうがそれらしく見えます。 「プログラムや命令を記述したデータのまとまり」これはいいですね。 ソフトウェア化=プログラムや命令を記述したデータのまとまりとして世界を構成するあらゆる製品・社会システム・ビジネスが表現されるようになること と言うことができそうです。辞書って引いてみるもので、この表現は割と個人的にはしっくりしました。 そして、この=がもう少し具体的には何を表すかと言うと

  • ソフトウェアがハードウェアや社会システム、ビジネスの設計などの様々な設計・アーキテクチャを規定するようになること
    • =ソフトウェアで取り扱うこと(あるいはソフトウェア的に取り扱うこと)があらゆる物事の前提に置かれること
  • ソフトウェアで取り扱う(もしくはソフトウェア的に取り扱う)とは?
    • 物理的な実体を意識することなく機能を利用することが出来るようになること
      • モノを送る (or データを送る)
      • 移動する
      • モノを瞬時に手に入れる(買う元を問わない)
      • 泊まる(or スペースを利用する)... これは少し語弊があり、物理的な実体が本質的に価値を持つだろう
    • コモディティとしての機能(or リソース)は使いたい分だけ柔軟に利用することができる
  • アルゴリズムやロジックを改善することで、機能を質的に改善することができ、改善の反映が限界費用0で行えること
    • それにより、高速に改善が行えること .... ソフトウェア化というより、プロダクト化に近いかもしれない
  • アルゴリズムやロジックの実装や更新を柔軟にかつ望むタイミングで行えること
    • 一度リリース・施行しようとも、後から質の改善を行うことができる

ソフトウェア化の流れを支えるもの

  • ソフトウェアのリソース確保が劇的に用意になった
  • PCの普及によるプロダクトやサービスの制作・製造プロセスのデジタル化
    • デジタル化が早かったもの(1) ... ニュース・音楽・写真・映画などなど、本来的に「情報」であるもの
    • デジタル化が早かったもの(2) ... 手紙・会話 ... 「情報」の交換であるもの
  • 常時接続課+スマートフォンの一般への爆発的普及による顧客接地面デジタル化(toC、もしくはリアルビジネスにおいて顕著に)
  • 企業の競争力の原点=差異化の原点がデータに(性格には、ノウハウではなくデータに。人間のノウハウがロジックとし記述できること、もしくは深層学習的なモノで置き換え可能であることが示され始めた)
  • 安価なカメラやセンサの普及による「デジタル化」or「データ化」出来る領域が拡大
    • ソフトウェア的に取り扱えるものの増大

なぜ不可逆であり合理性があるのか

世界のある程度の部分を構成している企業の経済活動と競争を鑑みると、明らかにそこに合理性があります。企業の競争力を現在上げている利益の大きさと未来に上げることができる利益の期待値(もしくは、未来に上げることができる利益の期待値、だけでもいいかもしれません)と表現すると、

  • コストを下げる方向にソフトウェアが必要 (SoR的なシステム)
  • 既存の顧客を満足させ、潜在的な顧客を引きつける目的を達成するためにソフトウェアが必要(SoE的なシステム)

両者にソフトウェアが効果的に働くと言えますが、常時接続化とモバイル端末の普及により特に後者が加速したと思われます。モバイル端末というタッチポイントの爆発的な増大と、それを用いたデータ分析・リアルタイムの行動解析からの品質改善を用いることによる製品の改善サイクルの高速化が進みました。当然、ソフトウェア的・アルゴリズム的に取り扱えないと競争に負けてしまうわけです。実態のあるモノを売るサービスでさえも、販売経路はデジタル化されソフトウェア的に取り扱われているため、同様の競争に不可逆的にさらされます。また、エンドユーザがモバイル端末を用いない領域(例えばファミレスでタブレットで注文する場合や、焦点でリアルな購買行動をする場合)においても、別の安価なデータを取るデバイスにより、購買行動や傾向をデータ化してソフトウェア的に取り扱うことが可能になっています。他にもテスラなんかはよく例として挙げられますが、一度リリースした車のソフトウェアをアップデートすることで乗り心地や燃費の改善を行うことができるようになっているのです。農作物がどういう味になるかもデータで捉えることができそうですし、対面でもやり取りが前提となっていた医療や教育という領域でもインプットとアウトプットを明確に定めることでソフトウェア的な取り扱いができるようになっています(この辺りは別途整理します)

ソフトウェア化は進めば進むほど、ソフトウェア化されていない領域のソフトウェア化への合理性を強めます。なぜなら、利用範囲を拡大するための限界コストが0に近い(製造の限界費用がゼロに近い、もちろんマーケティング費用などはかかりますが置いておきます...)モノに対応していくためには、人で対応するには足りないからです。それゆえ、安全性や信頼性の担保、規制などなど、政治の世界を含むあらゆる物事も不可逆的にソフトウェア化しそうです

お気持ち

  • 今後はプロセスのソフトウェア化が進む(単なるデジタル化ではなく、承認作業や確認作業を含むソフトウェア化、そしてそこにはおそらく、DLT的なものが用いられる)
  • ソフトウェアで取り扱うためにアーキテクチャが変化していく
    • データの標準化・業務の標準化が進む(はず)・規制のソフトウェア化が進む
  • が、御存知の通り日本はその辺りの動きは遅れがち
    • 一重にはソフトウェアエンジニアが少ないもしくは理系・文系が分断されていること、労働者の新たな教育の機会が削がれていることなどが挙げられると個人的には思っている
    • エンジニアリングわかる人とか中小企業には少ないのでは?それに加えて、ハッキリ行ってしょうもないシステムで業務を効率化しようとして発注欠けると結構金とられるんじゃないか?(仮説)    * 業務をソフトウェアに合わせるのではなく、ソフトウェアをカスタマイズしてしまいがち(仮説)
    • 規制等がソフトウェア的発想で作られていない=人ででカバーという発想になりがち
    • 人を採用すると固定費になるのでアレ(人か切りづらいのでソフトウェアで効率化しようという圧が弱い)
    • エンジニアスクールを増やすより、業務の現場に出るおばちゃんにGASやVBAを勉強して欲しい
      • 力仕事や体力勝負でないし、リモートでも価値を出しやすいので、より多くの女性がソフトウェアエンジニア的スキルをつけて世に出るのはすごい価値がありそう
      • とはいえ、ソフトウェアエンジニア界はホモソーシャル
        • セクハラ的発言も多く、女性が明らかに入りづらい -> この空気は打破しないといけないのでセクハラ的発言には厳しく行きたい

ジョーカーを見た (1) 善悪 / 想定の内外を自己規定する快楽の物語

すごい映画を見た。まだ咀嚼しきれていない。

一旦、今の理解としてはージョーカーというタイトルそのものが巧妙に仕込まれたジョークであるように思える。 アーサー・フレックは皆のよく知る「ジョーカー」であるか?というと、今の理解では、僕はそうではないと思う。多分彼は人々が考える「正史」としてのバットマンのどのジョーカーにもならない。

今の(ひとつの)理解としては * 全編が現実(!=妄想) * 恋人のくだりだけ、この理解だと解釈に無理があるようにも思える * アーサー・フレックは皆のよく知る「ジョーカー」にはならない * ジョーカー(もしくは監督がインタビューで)言うように「政治的な意図はまったくない」 * それ故、格差の問題などを扱ってはいない * 何が快楽で何が善、何が悪かを選び取る一人の男の物語 * ポスト・トゥルースの時代において客観的な事実/真実よりも個人の感情や価値観が優先されることの快楽であり狂気 * (生まれてはじめての)快楽を感じるごとにアーサーは本能の発露として踊る

見る度に心の奥底にある何かを刺激される類の映画、確実に最高の作品の一つだろう。

一言でいうと

「他者のまなざしから逃れた主観的な喜劇(=快楽)を人間は定めなければいけないし、その自己決定の不条理こそが人生である」ことを歌った「不条理な人間讃歌」

である。

アーサーの苦悶のノート(=ネタ帳)や劇中のセリフには何度も「他者からのまなざし」を感じさせるセリフが散りばめられている。他者から正常に振る舞うことを求められること、誰にも目を向けてもらえないことなどだ。コメディを見に行っても彼は他人が感じている面白さを感じることができず、一歩ずれて笑う。職場で小人をネタにしたジョークを聞いて作り笑いをする。彼は一度も心から笑ってはいない。なぜなら、何が面白いのかを理解できないからだ、彼の中に快楽のエンジンが備わっていないからだ。

それではアーサーが快楽を認識するのはいつだろう。それはおそらく、(妄想だという意見もあるが)地下鉄内で3人の男を撃ち殺した後のことだろう。この時点では彼は快楽を咀嚼できていない。論理で理解できない感情の動きを感じて一人で鏡の前でかく美しく踊り狂うのだ。なんだかわからないが心地よい、その感覚が彼を舞わせる。「おもしろさ」を理解できなかった人間が生まれてはじめて「おもしろさ」を感じた瞬間だ。ぎこちない、それでも尚美しい、鏡の向こうには自分がいる(それは今までに見たことのある自分だろうか?)。感じたことのない感覚で身体が爆発しそうになる。止めることができない(そしてその快楽は多分、初めての恋人とキスをした時の衝動的快楽に似ているだろう)

www.youtube.com

作中で彼は三度舞う、それぞれが異なる快楽を背景にしているように見える。2回目のダンスは元同僚を撃ち殺した後の、向こう側に下り坂を栄光のスポットライトかのように照らし出す光を見ながら階段を駆け下りるシーンだ。この時点で彼はすでに快楽がなにか、何が自分にとって善であるか悪であるか(その線引をどこに持つか)を決定している。自己を確立した彼は、今度は軽やかに楽しそうに踊る。自分のリズムで、誰に妨害されることもなく、誰かの定めた価値観に縛られることもなく。テレビの前でこの後に快楽を世の中に叩きつけるという高揚感が彼を駆り立てる。

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三度目のダンスはなんだろう。あたかもステージ上でスポットライトに照らされているようなカットが少しの間入るあの瞬間。ピエロを被った群衆から立ち上がる歓声と祝福の声。車の上に乗る彼は血塗られた笑顔を描ききって、ひときわ大きく笑う(という、口を象った血により、大きく笑っているよう見える)あたかもそれは(薄っぺらい)承認の快楽を表しているように見える。しかしそれを単純な承認の快楽として片付けたくはない。その点はまだ、咀嚼しきれていない。

最終的に彼は逮捕され、精神病院に送り込まれる。高らかに心から笑った後、外に出て。駆け出すように、踊るように逃げ出す。

笑いについて

多分彼は「まなざしに怯えている」だけで病気ではないのだろう。という理解をした。眼差しに怯えている時の笑いは咳を伴い。価値観を確立した後の笑いは咳を伴わない。

アーサーの特徴である突発的な笑いに注目して鑑賞すると、当然ではあるが笑いには幾つかの質があり、その質的差異が案外重要なのではないかと気付かされるように思える。実際の所アーサーが感情(や不安)の発露として突発的に笑い出す場面はそれほど多くない。僕の覚えている限り下記がそれに該当する

  • 最初のカウンセリング
  • バスの中の子供に対して顔芸をする場面
  • 地下鉄内(3人の男の殺害の原因)
  • ステージ上(SHOWに出演するきっかけ)

下記のシーンでは不気味な笑い声を出しているのだが、質的に異なっていると感じた。

  • 精神病院の階段
  • 最後のシーン

というのも、前者4つは笑った後に咳き込むなどして苦しみに喘いでおり、後者2つは苦しみがあるようにみえなかったからだ。(精神病院の階段に関しては記憶が曖昧である。もう一度見なければ行けないかもしれない)喜劇的なものを自分の中に持った後のアーサーは、それまでのアーサーと質的に異なる笑いをするのだ。

劇の途中までのアーサーは他者の笑いのポイントを理解することができない。それ故、コメディアンのショウを見に行っても笑いのタイミングがずれるわけだし、小人が笑い飛ばされるときも作り笑いをしてすぐ真顔になるなどするわけである。

タバコ

タバコを吸っていることが妄想/現実の境目だという意見が見えたが、割と同意している(が整理しきれていない)

メモ

鑑賞後、どのようなコンテクストをもった観客であれ、価値観や自意識、人生観をに強烈に揺さぶられる映画だ。それはまるで、心のどこかに突き刺さって離れない金属片のように、傷が浅いか深いかも分からず、取り憑かれ続けることになる。映画館を出た後の日常の行為が、普段と決定的に異なっているように見える。階段を降りる足取りも、地下鉄の中の光景も。金属片は一つの「想定の範囲内」ではないものであり、ヒース・レジャー扮する「ジョーカー」がデントに言い放つ所の恐怖である。混沌の本質である恐怖、自身の中にある「想定」の恣意性と観客は否が応でも対峙せざるを得なくなる。そしてそれは冒頭部、ただのピエロ姿の男(≠ジョーカー)が不良少年たちに虐げられるシーンに黄色文字のJOKERが重なった瞬間から始まっている。想定に関する恣意性との対峙、それに伴う自己決定権の回復、両者を求められるが故、これほどまでに心に張り付き続けるのだろう。社会から排除されて明示的に奪われている者にとっても、「正常な」生活を送ることができ、あたかも自己決定できているかの幻想を抱かされている者にとっても、幻想が打ち砕かれるその瞬間の快楽、心のどこかにしまい込んでいた自己

前提条件としてはホアキン・フェニックスの演技、シーンに合う素晴らしい音楽達、美しいダンスシーン、過不足のないプロット、美しい絵、挙げれば切りがないし、文脈を巡る一映画ファンの妄想なんて書き連ねても何も得るものはないから何も記さないでおく。映画ファンの皆さんはせいぜい「犬殺しに気をつけて」ほしい。

考えたい点

  • 作中アーサーは2度泣く、アーサーは何に涙しているのか?
    • ピエロに扮しているときしか泣けないのだろうか?
  • アーサーの感情の発露としての震え
    • 単純な怒りか
  • 冷蔵庫
    • 中身を取り出すことが何を意味しているのか
  • 繰り返される自殺のリハーサル
    • 銃で自らを撃ち抜こうとする  - やはり全部が妄想か?
  • 夢と現実の境目
  • ラストシーン・血塗られた足跡

「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア (9/200)

本の感想を書き留めておく程度のブログでも三日坊主になってしまうのは中々悲しい話だ(何か感想を書こうと思って書き留めたメモはたくさんある) 噂の広まり方やSNS上の情報戦の実態を肌感を持って知っておきたかったので下記の本を読みました。

「いいね! 」戦争 兵器化するソーシャルメディア

「いいね! 」戦争 兵器化するソーシャルメディア

誰もが情報戦争の戦闘員に。その「シェア」「いいね! 」が殺戮を引き起こす

アメリカ大統領選挙イスラム国、ウクライナ紛争、インドの大規模テロ、メキシコの麻薬戦争……。 国際政治から犯罪組織の抗争まで、SNSは政治や戦争のあり方を世界中で根底から変えた。 インターネットは新たな戦場と化し、情報は敵対者を攻撃する重要な兵器となった。 いまやこの戦場で人びとの注目を集めるべく、政治家やセレブ、アーティスト、兵士、テロリストなど何億人もが熾烈な情報戦争を展開する事態に!

なぜネット上に「荒らし」やフェイクニュースが氾濫するのか?

フェイクニュースは、真実を伝える記事より約6倍速く広がる。 ・以前に聞いたことがあるニュースは、嘘であっても信じられやすい。 ・SNSで最も早く遠くまで伝わる感情は怒りである。

軍事研究とSNS研究の第一線で活躍する著者が、多数の事例をもとに新たな戦争の実態を解明。 SNSのグローバルな脅威を突きつける衝撃作!

佐藤 優氏絶賛 「誰もが戦争の当事者になり得る新種の戦争の本質に迫るタイムリーな一冊」 ――本書解説より

目次

  • 開戦――「いいね! 」戦争とは何か
  • 張りめぐらされる「神経」――インターネットはいかに世界を変えたか
  • いまや「真実」はない――ソーシャルメディアと秘密の終わり
  • 帝国の逆襲――検閲、偽情報、葬られる真実
  • マシンの「声」――真実の報道とバイラルの闘い
  • ネットを制する者が世界を制する――注目と権力を求める新たな戦争
  • 「いいね! 」戦争――紛争がウェブと世界を動かす
  • 宇宙を統べる者――「いいね! 」戦争のルールと支配者たち
  • 結論――私たちは何を知っているか、何ができるか

感想

SF-loverのメーリングリストから始まったインターネットを利用したコミュニケーションは確実に過去に描かれたSF的な未来を生み出しつつある。 皆さん御存知の通り、そこでは人々が信じる物事が「真実」とされ、「真実」であることが証明できる物事がかき消される恐れがある。戦争や紛争はSNSを利用して行われるように成り、 アメリカ軍は戦争をシミュレーションするのと同時に、軍事訓練用の架空のインターネットを用意して情報線をもシュミュレーションしているらしい。それだけ、ロシアやISISが行っているような情報線は苛烈さを増しているのであろう。

感情が伝染することで社会に亀裂が生まれつつあるという意味では今の日本はまさそれだし、社会がネットワーク上のトロールと戦う力が弱まっているのも感じる。 インターネットは今日も地獄だし、特に日本に置いては先行きが不透明であるように思える。 必然としてのポスト・トゥルースの時代において、人間は幸せになれるのだろうか? 良きAIと悪しきAIはどちらが勝利するのか? テクノロジーで検閲性と透明性公平性の中間地点をうまく見い出すことはできるのだろうか?

開戦――「いいね! 」戦争とは何か

ISISがもたらした恐怖をもたらす情報の拡散にたじろいでイラク軍が撤退していき、ISISの台頭を許した様はナチスの電撃作戦を思わせる。 現代の情報戦は「物語」、感情、信ぴょう性、コミュニティ、情報氾濫を巧みに利用する。 インターネットはあらゆる秘密を守ることを不可能にした。真実を圧倒し続けるバイラル性がパワーとなるアテンション・エコノミー上では、 戦いの主体は双方に情報を拡散し情報に触れる人間の心理の操作を行おうとする

張りめぐらされる「神経」――インターネットはいかに世界を変えたか

インターネットの発展に関する賞。SF-Loversの誕生からインターネットの普及、Facebookの誕生まで。 いくつかの巨大な企業に独占されるようになった情報ネットワークはこれまでの通信網の発展の歴史に則っているとも言える。

いまや「真実」はない――ソーシャルメディアと秘密の終わり

インターネットとソーシャルメディアの発達により、秘密を守ることや記録を忘却させることはほぼ不可能になった。例えば、「マカカ・モーメント」... 失言が瞬時に拡散し永続化することで政治家の政治生命が奪われるように(かつてはあり得なかった)と呼ばれる事象が発生したり、エクササイズを記録するアプリから米軍の基地の場所がバレたり、ビンラディン襲撃作戦がたまたまあ世界に実況中継されることになったり、「気づかれない」軍事作戦がほとんど不可能になっていることなどが挙げられる。 また、OSINT(オープンソースインテリジェンス)の発達により、マレーシア航空777便の事件の原因がロシア軍にあることが突き止められるなどした。専業主婦の男が、YouTubeGoogle Mapを駆使し、シリアの内戦に関するブログを執筆していた。アサド政権が神経ガスを利用した証拠などを集めていたが、彼がマレーシア航空の事件に関する調査プロジェクトを開始したのだ。ミサイルを発射した部隊まで特定し、実際に発射した人間をVK上のロシア兵の母や妻がコミュニケーションする掲示板的なもので探り当てたらしい。OSINTはかつてのCIAやKGBと同程度の情報収集能力を発揮する。 一般市民でさえもかつての諜報機関に匹敵する調査能力を持つのだから、この世に「秘密」など存在し得なくなっているのだ。

帝国の逆襲――検閲、偽情報、葬られる真実

ロシアではアラブの春の影響からVK上で反プーチン的なかきこみが増えたことをきっかけに、VK創業者を「自動車事故の犯人」としてでっちあげて逮捕しようと試みたらしい。結局VKの創業者はプーチンの息のかかった人間に株をすべて売渡し、国外に逃げる羽目になった。おそロシア文化大革命を招いたとして批判された群衆主義は習近平がインターネットを「世論を凝縮して一つの強力な民意にする」というビジョンを実現するツールとして称賛しだしてから返り咲きを見せ始めている。 ロシアでは大学を出た後に職を得ることのできなかった若者がインターネット上で偽の情報を拡散する仕事に携わっている。 アゼルバイジャンやインドでも除法操作のための影の軍団の動きがあることが指摘されている。

マシンの「声」――真実の報道とバイラルの闘い

マケドニアの若者が作り上げたフェイクニュースサイトがトランプ支持者によって多大に拡散され、結果的に大統領選に影響をもたらした。マケドニアではフェイクニュースサイトを作ることで若いギークたちが金を持つようになったので、それまではマッチョがモテていたスクールカーストが反転し、ギークがモテるようになったという。(「ローマ法王がトランプを支持」などの記事を拡散した) アメリカか(そして日本で)で最も幅広く広まっている「嘘」(ないしエビデンスが無いことが認められているもの)の一つに「反ワクチン」運動が存在する。フィルターバブル、エコーチェンバー、確証バイアス、そしてホモフィリーなどの人間の本質的な性質が嘘が超拡散する時代をもたらしている。人は怒りに任せて馴染みのある主張を何度も何度もシェアする。 ヒラリー・クリントンが関係する幼児性愛者の秘密組織がアジトにしているという噂のピザ屋に男が「正義感」から銃を持って乱入したのは2016年である。それ以来、各地でそのような事件が起こっていないだろうか?

ルーモアカスケード(噂の滝)を分析すると、偽りのほうが真実よりもより遠くへ。、早く深く広く拡散することがわかっている。

ネットを制する者が世界を制する――注目と権力を求める新たな戦争

一貫性と共鳴と真新しさが、人が情報を「物語」として捉えてシェアするための条件となっている。怒りは喜びよりも影響力があり、早く伝染する。また、「情動感染」と呼ばれる現象が知られており、他者との直接の相互作用がなくとも、怒りや喜びのメッセージを繰り返し見るだけで自分でも同じ感情を抱くようになる。人々が共感をもち信じるためには「信憑性」も大切である。

「いいね! 」戦争――紛争がウェブと世界を動かす

IDFとハマスの情報戦(IDFの方が圧倒的に強い)紛争地の幼い少女が情報発信の担い手として少年兵として戦争に参加させられている。 ハッシュタグの乗っ取り(美しい写真で抗議活動のツイートの量を圧倒したり) ロシアとウクライナのクリミアを巡る紛争の裏で行わっれている上皮応戦(親ウクライナ派が大量虐殺を隠蔽しているという偽情報なや、ウクライナ兵が少年を裸にして十字架に貼り付けにしたなどの偽情報お拡散)ソックパペットと呼ばれるいくつもの偽の人格を持ったアカウント群を操作する若者たち

宇宙を統べる者――「いいね! 」戦争のルールと支配者たち

コンテンツモデレーションの歴史(AOL -> Facebook -> モデレータ専業者の地獄)

結論――私たちは何を知っているか、何ができるか

水平思考ができないと嘘に騙される デンジャラススピーチ(社会のサブグループ感の暴力を促すものの研究から生まれた言葉) マイノリティ日台して、憎悪を掻き立て暴力行為を促すことを狙った公的発言を指す * 人間性を失わせる言語(人を動物に例えたり、不快なものを人間以下のように扱う) * 暗号化された言語(ミームの利用) * 不純さの指摘 * 鏡の中告発(自分たちこそが攻撃されているという嘘を付く) * 決めつけの正義感

<ヤンチャな子ら>のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す (8/200)

ふとツイッター上で面白そうな本を見つけたので読んでみた。東京生まれ東京育ち、どちらかと言うと東京23区のの西側で育ってきた身としては「ヤンキー」 というのはどこまでも架空の存在であるし、「ヤンキー」っぽい人というのもせいぜい実家の近所にある深沢高校の悪そうな生徒であるとか、その程度であった。 もちろん、夜な夜な渋谷に繰り出してくる悪そうな奴らというのは目撃はしていたし、僕の生活世界には存在していたのだが、本書で取り扱かわれている「ヤンキー」とは 性質がかなり違う人々であるように思える。

TL;DR;

*「ヤンチャな子ら」の中にもある種の社会的な亀裂が存在しており、同質性にばかり注目して語ることは難しい * 学校内部では学校文化の一部として統合されているが、過程の経済状況などの外部の要因によって分断されている * 意思決定や選択が文化により規定されていると言うよりは、社会関係により規定されている

目次

序 章 〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィーに向けて 1 巷にあふれる「ヤンキー語り」と調査の不在 2 〈ヤンチャな子ら〉を調査・研究する意義 3 本書の目的と独自性 4 調査の概要 5 本書の構成

第1章 ヤンキーはどのように語られてきたのか 1 若者文化としてのヤンキー 2 生徒文化としてのヤンキー 3 階層文化としてのヤンキー 4 これまでのヤンキー研究の課題 5 分析の方針

第2章 〈ヤンチャな子ら〉の学校経験――教師との関係に着目して 1 〈ヤンチャな子ら〉と教師の対立? 2 学校文化の三つのレベル 3 家庭の文化と学校文化の葛藤 4 〈ヤンチャな子ら〉と教師の相互交渉 5 教師への肯定的評価と学校からの離脱 6 〈ヤンチャな子ら〉と「現場の教授学」

第3章 〈ヤンチャな子ら〉とは誰か――〈インキャラ〉という言葉に着目して 1 集団の曖昧さ 2 類型論的アプローチを超えて 3 〈インキャラ〉という解釈枠組み 4 文脈のなかの〈インキャラ〉 5 〈インキャラ〉という解釈枠組みのゆらぎ? 6 集団の内部の階層性

第4章 「貧困家族であること」のリアリティ 1 「子ども・若者の貧困」研究における本章の位置づけ 2 「記述の実践と しての家族」という視点 3 記述の実践としての「貧困家族」 4 アイデンティティとしての家族経験

第5章 学校から労働市場へ 1 〈ヤンチャな子ら〉の仕事への移行経路 2 〈ヤンチャな子ら〉の移行経験――六人の語りから 3 移行経路と社会的ネットワーク

終 章 〈ヤンチャな子ら〉の移行過程からみえてきたこと 1 〈ヤンチャな子ら〉集団内部にある「社会的亀裂」 2 重層的な力学のなかにヤンキーを位置づけた意義 3 「ヤンキー」と括られる人々の内部に目を向けることの重要性 4 アンダークラスとしてカテゴリー化することの危険性 5 〈貧困の文化〉か、〈社会的孤立〉か 6 社会関係の編み直しに向けて

気になったところ

  • 本書で取り扱われている「ヤンキー」と呼ばれる層は学校や教師と明示的に対立しているわけではなく、学校文化と家庭文化(親からの影響の中)の間におかている。親からの影響によって肉体労働等の職業に将来の展望を見出してはおらず、同じ道を歩むことの将来性のなさも自覚しているが、学校を卒業することの意味も見いだせず、学校文化を異化することも同化することもできない状態に置かれている。そのうえで、教師が彼らのケアをしてくれることに関しては感謝をしており、その恩義にたいして報いることができないという後ろめたさが、学校から彼らを遠ざける一員になるなどしている。
  • 外部から見ると「逸脱的家族」である貧困状況などを、当事者たちは「正常な家族」であると読み替えようと試みる。家庭内暴力が存在する家庭であっても、それと併存できる形での「家族の良さ」を自認しようと試みる。家族経験は集団内でも多様であり、一つの家庭内でも多様な経験をしている。そのため、彼らは時と場合によって家族を語る語り口を変える。
  • 「社会的ネットワーク」=知人による紹介による就職などが、彼らが継続的に安定した仕事につけるかどうかの鍵を握っている
  • 貧困層には特有の文化があり、それが彼らの選択を規定しているという捉え方をするよりも。彼ら個々人が保持している社会的ネットワークに注目したほうが筋が良さそう
  • 安易にアンダークラスという語をつかってカテゴライズすることは適切でない
  • 本書に出てきた学校の先生方が行っている「ヤンキー」と呼ばれる層に対する対処(ケア)は目を見張る者があった。社会に多くの良い教員が存在することが、社会の治安や分断が底抜けに成らないする前提条件として重要なのだなと素直に感服した。

トランスヒューマニズム: 人間強化の欲望から不死の夢まで (7/200)

シンギュラリティは近いだの何だのとシャレでは言ってみたり、前の会社の社長が東洋経済の記事を見て全社の前で「AIに仕事が奪われるぞ」と宣っているのを白い目で見たりと、プログラムが人間を超える的な考え方とは一定の距離を取り続けて生きてきているわけですが、単に巷で言うAI(バズワードになりすぎていて、そろそろ死につつあるだろう)ではなく、人体の拡張であったり、人間の不死化であったり、心のデータ化、精神をネットワークにアップロードしようとする試みだったり、死を超越したり、ネットワーク越しに意識を偏在させることを可能にしたりするテクノロジーには確かに夢があるわけです。そういった人間を超えていく試みを真面目に取り扱った書籍を見つけたので読んでみようということに。

いつか訪れる約束された死の基に人が生まれてくること、そしてそれを回避しようと死を避ける少ない可能性に賭ける少数の人々の試みに感極まり少し泣いてしまった。

トランスヒューマニズム: 人間強化の欲望から不死の夢まで

トランスヒューマニズム: 人間強化の欲望から不死の夢まで

シリコンバレーを席巻する「超人化」の思想 人体冷凍保存、サイボーグ化、脳とAIの融合……。 最先端テクノロジーで人間の限界を突破しようと目論む「超人間主義(トランスヒューマニズム)」。 ムーブメントの実態に迫る衝撃リポート!

目次

  • システムクラッシュ
  • 出会い
  • 訪問
  • ひとたび自然から出てしまえば
  • シンギュラリティについてひとこと
  • トーキン・ブルース―AIによる生存リスク
  • 最初のロボットについてひとこと
  • ただのマシン
  • 生物学とそれに不満を抱く人々
  • 信仰
  • 死を解いてください
  • 永遠の命のキャンピングカー
  • 終わりと始まりについてひとこと

気になったところ

全体として、お話としては面白いし、語り口的に目の前である種の狂信者的人間が語っているような「身近さ」「リアリティ」を感じることができる書籍だった。 感情を司る神経を直接撫でられる感じがなかなかに心地よい書籍。個人的にはジャック・アタリ的なトランスヒューマンと、本書のトランスヒューマンが混ざり合う境界面を見てみたいような気がする。 テクノロジーにより極めて利他的に振る舞うことができるようになる人類。果たしてそれは幸福の運び手だろうか?

友好的なAIの開発について

友好的なAIを人類がいかに開発できるのか?という問い。AIなんてものはまだこの世に存在しないわけだけれど(それ故、ブログ著者はシンギュラリティについては懐疑的である)、アルゴリズムが人間に対して 必ずしも友好的に振る舞い続けるかどうか?に関しては世界はもう少し考えてもいいような気がした。AIの危険性に警鐘を鳴らす人たちは本書で「核兵器並みに危険性のあるテクノロジーに対して防御が少なすぎる」 と述べるのだが、「核兵器並みに危険度の高いテクノロジー」の満たすべき性質ってなんだろうと少し考えてみた。 ・使用することで大量の人の命を奪う可能性がある ・影響が時間軸に対して限定的でなく、世代を超えて脅威が伝達される可能性がある ・上記に加え、環境に対して修復不能な不可逆なダメージを与える。

マインドアップロードなどの技術に関して

Nectome社のやっている技術などの話。死ぬ前に脳を保存液に浸す保存液に浸された人は死ぬ。将来サイボーグとして復活するためにこのような手段を取るのだ。 古典ではあるがこの本などに精神転送、マインドアップロードについては記載がある。 https://www.amazon.com/Beyond-Humanity-Cyberevolution-Future-Minds/dp/1886801215 将来蘇るために未来の技術に自分を託すという選択をする人がごく少数ではあるが存在するということに少し心が震える。自分がその選択肢を提示されたとき、死を選ぶだろうか、それとも保存されうることを望むだろうか。 保存施設に保存された脳が世代を超えて守られる絵というのも神秘的である。幾重にも張り巡らされた予備電源....警備員や脳の状態をモニターするシステムにどれほどのコストが掛かるだろう?

社会運動としてのトランスヒューマニズム

トランスヒューマニスト党ではないが「国は不老不死を実現するための研究開発に投資すべきだ」という主張はあながち的外れでもないと思う。 例えば日本の悪名高い詐欺年金のような支給されない破綻した仕組みを延命するためにごまかしを重ねるより、潔く年金を廃止し、同じ量の資金を不老不死の研究に投資したほうが社会としては 健全なのではないかと思うが。どうなのだろう。

ハイエクの経済思想: 自由な社会の未来 (6/200)

ティム・オライリーWTF経済を読む前にGov2.0などの関連でハイエクの思想のベースを掴んでおこうと借りてきた本。WTF経済はsafarionlineにあったので英語で読もうとしているが、心が折れて日本語で読んでしまいそうな予感を感じている。貨幣論とか自由論を読む前に基本的な考え方とか思想の流れを掴んでおきたいよね〜というノリで読んでいます (その割に、借りてきた本が専門書であるので、著者の方には申し訳ない次第である。でも薄っぺらい新書だと嘘書いてあったりするじゃない)

ハイエクの経済思想: 自由な社会の未来像

ハイエクの経済思想: 自由な社会の未来像

一貫して自由主義者であったハイエクは、知識や情報といった概念を社会科学に採り入れ、その重要性と位置づけを論じた先駆者でもあった。今世紀にはいってから急激に進展したハイエク研究の成果とインターネットなどの技術革新や社会変動をふまえ、われわれの社会の未来像について、改めて考えてみる。

目次

Amazonに目次がなかったので割愛

そもそもハイエクって?

自由主義経済と個人主義の旗振り手。 貨幣発行自由化論では中央銀行が貨幣を発行するのではなく民間に競争させることを唱えたり、あらゆる点で個人の自由が最大化される世の中(小さな政府、規制の最小化)を目指そうと思想を構築していったことが特徴の経済思想です。冷戦終結直後に亡くなっていますので、インターネットが登場する前の経済学者ではありますが、ニューラルネット的な考え方を取り入れた「感覚秩序」のような著作があったり、インターネット(情報伝達の基盤) + ブロックチェーン(信用の基盤)により個人の自由の範囲がさらに拡大するであろう社会を予見するような思想を展開したりなど(要出典)した経済学者です。

ボランティアの技術者たちがつくったインターネットが、1990年代以降あっという間に世界に広がり、サイバースペースにグローバルな「自生的秩序」ができた。これは計画経済に対する市場経済の勝利と似た出来事だった。それは「不完全な知識にもとづいて生まれ、つねに進化を続ける秩序が、あらゆる合理的な計画をしのぐ」というハイエクの予言を証明したのである。

「不完全な知識にもとづいて生まれ、つねに進化を続ける秩序が、あらゆる合理的な計画をしのぐ」

良い学術的パンチラインですね。ハイエクの言うところの共時的知識や通時的知識が進化していくために競争は必ず社会に必要であるし、「良い競争」を担保することさえできれば政府は最小限の存在で良い。もちろん、こういう考え方には批判がつきものですし、20世紀末期と21世紀初頭で批判され議論されつくされてきた感はある。 新自由主義に対する批判は繰り返され、その中心的思想家としてハイエクは批判されてきた。 そんな中で、ネットワーク的なインフラが整備された知識社会の未来を予見した思想家として最近は再度注目が集まっている(らしい)

参考リンク

synodos.jp 5分でわかるフリードリヒ・ハイエクの「貨幣発行自由化論」| わかりやすく要約 | クリプトピックス 仮想通貨と経済を解剖するブログ
1337夜『市場・知識・自由』フリードリヒ・ハイエク|松岡正剛の千夜千冊
ikedanobuo.livedoor.biz ameblo.jp

気になったところなど

少し雑なメモ(経済の本をまとめるの難しいね)

用語

自生的秩序 =人間行為の結果ではあるが、人間的設計の結果ではなく、歴史的過程を経る中で意図せず発生したシステム

自生的秩序の中には歴史的な過程を経て残ってきたルールが蓄積されており、人びとはそうしたルールに従うことによって行動の不確実性を減じ、行動についての将来の指針を得ることで生まれながらの無知に対処している。ルールにしたがう行動をとるためには、人々が自由な状態、すなわち強制から免れている必要がある

自由に関して

自由を大別すると二通りの自由が存在する「積極的自由」と「消極的自由」だ。積極的自由とはある集団が何かをしようとする自由であり、消極的自由とは能動的に何かをしようはしない、行動の前提として存在している自由のことである。後者のほうがより状態に近そうだ。ハイエクにおける自由とは、誰もが他人の恣意的な意志の強制に服していない状態、他人の恣意的な意志により知識の利用を妨げられない状態である。なぜこの自由が大切だとハイエクが主張するかというと、個人は生まれながらに無知であり、個人も知識は不完全である。理性の力の限界に基づいた個人が根幹に想定されているからである。人間は部分的に理性に導かれ、個人の理性は極めて弱く、非合理的に振る舞う。個人の知識が集積し、集団の中で明示的もしくは暗黙的に共有されたものはある種の集団の知識となり、集団は暗黙的な知識を明示的に伝達しなくとも学べるように市場秩序などのルールを形成していく。ルールは時間を減るごとに競争にさらされ、淘汰され、適したものが残って洗練されていく(進歩主義に則るならば)集団の中の個人はルールに従うことで「うまくやる」方法を学習していく。卑近な例でいうと、中身を全く知らないが何かしらのサービスを利用し、生活上の便益を得る。などがそれに該当する。ルールの洗練により社会の知識は進化していくから、個人が不必要に制約を課されてルールに従う行動を制限されると、競争に悪影響がでうる、それは結果として社会の進歩を遅らせる。それゆえ、知識の利用に関する自由が前提となる社会が必要である。雑な理解ではこんな自由論だ。

未来社会、目指すべき社会に関して

「偉大な社会」であり「開かれた社会」に最終的には到達する。そこでは、人々は市場活動を通じて知識を伝達し、獲得し、お互いに協力していることを知らずに生活している。未来社会では、非人格的なルールが存在しており、すべての人は自分の知識を自分のために行使することが許されている。

透明性を担保した非人格的なルールの執行がプログラムによって行われる可能性は大いにあると思っていて、ハイエク的な自由な未来像はあり得るのではないかとふと思った。

世界をつくった6つの革命の物語 新・人類進化史 (5/200)

歴史から学ぼうという機運が最近あり、各種発明が人々の世界に対する認識をどういうタイムスケールでどのように変化させたのかを知るために図書館で借りてきた本。 ちなみに書評書く書く詐欺と化しており、書評積読(なんだそりゃ)的なものが積まれ続けている。 最近思うのはまとまった移動時間があることは有意に読書時間にきよするなぁと(高校の頃は一日山手線に乗って本を読んだりしたものである)

世界をつくった6つの革命の物語 新・人類進化史

世界をつくった6つの革命の物語 新・人類進化史

リビア砂漠で旅人がガラスにつまずかなければ、 インターネットはなかったかもしれない。 ガリレオが教会の祭壇にみとれなければ、 正確な時間は生まれなかったかもしれない。 ネアンデルタール人が洞窟の音響効果に気づかなければ、 ジミヘンの音楽は生まれなかったかもしれない。

「ガラス」「冷たさ」「音」「清潔」「時間」「光」――。 これら6つの大発明に寄与したのは、 ガリレオエジソンといった偉人だけではない。

むしろ、名もなき市井の人びとが、 目の前にある問題に懸命に取り組むなかで 予想外に生み出されてきたのだ。

先人たちにとっての「ぜいたく品」が、 現代を生きるわれわれにとって「あたりまえのもの」になるまで、 どのような苦労があり、どんな奇跡が起きたのか――。 本書は、まったく新しい発明を切り口にした、 まったく新しい世界史の物語である。

目次

  • ◆序章 ロボット歴史学者とハチドリの羽 ハチドリの羽はどうやってデザインされたのか?/世界を読み解く「ロングズーム」
  • ◆第1章 ガラス ツタンカーメンコガネムシ/ガラスの島/グーテンベルクと眼鏡/顕微鏡からテレビへ/ガラスで編まれたインターネット/鏡とルネサンス/ハワイ島のタイムマシン/ガラスは人間を待っていた
  • ◆第2章 冷たさ ボストンの氷をカリブに運べ/氷、おがくず、空っぽの船/冷たさの価値/氷によってできた街/人工の冷たさをつくる/イヌイットの瞬間冷凍/エアコンの誕生と人口移動/冷却革命
  • ◆第3章 音 古代洞窟の歌/音をつかまえ、再生する/ベル研究所エジソン研究所/勘ちがいから生まれた真空管/真空管アンプ、大衆、ヒトラー、ジミヘン/命を救う音、終わらせる音
  • ◆第4章 清潔 汚すぎたシカゴ/ありえない衛生観念/塩素革命/清潔さとアレルギー/きれいすぎて飲めない水
  • ◆第5章 時間 ガリレオと揺れる祭壇ランプ/時間に見張られる世界/ふぞろいな時間たち/太陽より正確な原子時計/一万年の時を刻む時計
  • ◆第6章 光 鯨油ロウソク/エジソンと“魔法"の電球/“天才"への誤解/ピラミッドで見いだされた光/スラム街に希望を与えたフラッシュ/一〇〇リットルのネオン/バーコードの“殺人光線"/人工の“太陽"

  • ◆終章 タイムトラベラー 数学に魅せられた伯爵夫人/一八〇年前の“コンピューター"/隣接可能領域の新しい扉

全体を通して

世界に影響を及ぼした発明の誕生にまつわる経緯、その波及効果を読み流すだけで好奇心がくすぐられる。 今の世界の常識が短い歴史しか持っておらず、人の世はかく移ろいやすく、新奇な物は常にはじめは否定され、乗り越えたものだけが世界を変えうる。 重要な発明は一人の天才によってなされるのではなく、あくまでもあるネットワークの中で生み出されるという事実が歴史により証明される。 極めて初期の一歩は未踏で、それ故批判にさらされるが、乗り越えさせるのも発明家の気概次第だ。

章ごとに気になった箇所

序章

植物の有性生殖戦略が最終的にハチドリの羽のデザインを決める。花は花粉を昆虫に知らせ、昆虫は花から花粉を取り出して受粉させる。長い期間の共進化が、骨格構造に制限があるにもかかわらず、空中にホバリングすることができるというハチドリの飛び方を進化させた。イノベーションやアイデアが他の思わぬ分野に波及することを著者は「ハチドリ効果」と呼んでいる。グーテンベルクによる印刷の発明により人々の間に読書習慣が広まり、その結果人々が、自分たちがひどい遠視であることに気がついてメガネを買い求めるようになったり、それがレンズの生産を刺激し、最終的には顕微鏡の発明へとつながるなど。「ハチドリ効果」はあらゆるところに潜んでいる。

第1章 ガラス

ガラスはケイ素の結晶として偶然発見され、まずは装飾用途であった。ローマ帝国において、頑丈なガラスの製法が発見されて器やガラス窓に用いられ始めた。東ローマ帝国の滅亡、コンスタンティノープル陥落と同時に、優秀なガラス職人は海を渡りヴェネチア近辺に移籍することになり、現代のガラス、透明なガラスが誕生する。その後、メガネが発明され、写本をする修道僧の間で使われ始めた。庶民はメガネを全く必要としなかったが、グーテンベルクによる印刷の発明により、大衆娯楽としての文字表現(小説・ポルノ本)が広まり、人々が自分たちが遠視で有ることに気づき始め、眼鏡が爆発的に求められるようになる。 また、別の話として、鏡の発明と中流家庭への普及が、人々の自画像の捉え方を変えていった。

第2章 冷たさ

大航海時代の貿易というのは南方のものを北方へ持ち込み行為であった。お茶、スパイス、綿、サトウキビ、などなど、赤道に近い太陽のエネルギーをふんだんに吸収した土地、高エネルギー帯から高緯度地域=太陽の光の弱い低エネルギー帯への物資の還流である。しかし、氷は例外的にその逆だった。ボストン近郊の実業家フレデリック・テューダーは近くの湖から切り出してきた氷を南へ輸出しようと挑戦した。氷を船に積み、南方へと輸出するのである。当初その目論見は、熱帯地域の人々が初めて見る「冷たさ」の概念を理解できなかったため頓挫することになる。氷を世界中に売ることには失敗したが、氷により飲み物を冷やしたり食べ物を冷やしたりする習慣がアメリカ南部にも広まっていき、氷を買う=冷たさを買うという行為が一般大衆の間に広まっていくことになる。 冷たさの概念が広く受け入れられたあとは、人工的に冷たさを作り出す挑戦がはじまる。ゴリーによって真空ポンプにより冷たさが作り出せることが発見されたあと、同時多発的に「人工的に冷たさを作り出す」という考えは世界中に広まり始め、カレーにより製氷機が発明され、都市の中に共有の「冷蔵庫」的建造物が広まっていく。

地球上に波紋のように広がったこの人工冷却の特許は、イノベーションの歴史の中でもとりわけ興味深いものの事例であり、現代の学者は「多重発明」と呼ぶ。発明や科学的発見はまとまって生じる傾向がある。地理的に散らばっている数人の研究者が、たまたま独自に全く同じことを発見するのだ、ひとりの点差が他の誰も夢にも思わないアイデアを考えつくというのは、実は例外であって通例ではない。

時代は下り、イヌイットからインスピレーションを受けた瞬間冷凍のアイデアにより冷凍食品が生まれ、その後エアコンが大型ショッピングモールや娯楽施設に広まり始める。エアコンの発明は、別の発明に由来していた。湿気の多い夏にインクが滲まないようにする印刷機の改善は、印刷機の周囲の空気を冷やすという波及効果を生んでおり、労働者が、その涼しさ故に印刷機の周りでランチ休憩をとりたがるようになった。それが認知され、部屋を人工的に冷やす機構=エアコンの発明につながる。そして、第二次大戦後それは小型化され、暑すぎて人間が住むには適さなかった土地に人が住めるようになった。人口動態が変化し、そしてそれは政治にも影響を与えた。

第3章 音

音は人種、民族を問わず誰の耳にも伝達される事ができる。それゆえ、差別が今よりも遥かに横行していた時代にアフリカ系アメリカ人のセレブリティを生み出すことになる。真空管アンプの発明により、新しい政治活動が発生した。演説、大規模集会、そしてそれを悪しき目的に用いたヒトラーの台頭。

第4章 清潔

新しい概念を導入しようとすると既存勢力から強い反発を受けるということのいい例が描かれた章だった。特にそれが、生理的な感覚に紐づくものであるときに、抵抗の強さが増すように思われる。

センメルヴェルスは、ただ医師が手を洗うことを提案したから、冷笑され追放されたのではない。もし医師が同じ日の午後に分娩と死体解剖を行いたいのであれば、手を洗うべきだと提案したから、冷笑され追放されたのだ。

手を洗うこと、身体を洗うことが衛生的であるという観念はそれほど古くからあるものではない(日本においても貴族様方は身体を洗うよりも香を炊いてごまかすことに執心していた)。水道が身近でなかったというは確かに理由の1つではあるが、社会通念というのはそれほど単純ではなく、水に身体を浸すのは不健康であり危険であるという衛生観念が一般的だった。ローマ人は蒸し風呂を楽しんでいたというのに、中世ヨーロッパの貴族様たちはずいぶんと今で言う「清潔」を嫌ったらしい。

この章で最も面白いのは水道の塩素消毒に関する章だ。ニュージャージーの医師、ジョン・レアルによる給水設備の改善、水中の細菌の数が計測できるようになり、水質汚染を数値的に計測し改善のサイクルを細かく回せるようになった後の話だ。塩素、当時で言う「さらし粉」によって細菌を殺すことができることをレアルは発見したが、「薬品による殺菌という考え方が不快」という理由で当局から拒絶されることになる。しかしレアルは強い信念を持っており、当局から許可を得ずに、一般市民になんの告知もせず、貯水槽への塩素剤の投入を決定し実行した。塩素消毒が発覚した後はレアルは裁判で訴えられることになるが、毅然と自らの正しさを主張して最終的な勝利を勝ち取った。かれは塩素消毒技術の特許を取得することはせず、全米の自治体で塩素消毒は標準的手法として採用される。

第5章 時間

時計の大衆化、標準時の発展に関する章。少し薄め。

第6章 光

夜が長かった時代、電球のなかった時代、人々は長い夜を2つに分けて過ごしていた。標準的な睡眠時間が8時間とされたのは電球の発明の後の話である。エジソンがメンローパークに集めた「マッカーズ」と呼ばれる天才たちは、それぞれが独自の専門分野を持つ多国籍のチームであった。エジソンは失敗を許容し、実験を繰り返すことの重要性、そして現金ではなく株による報酬の支払いなど、チームを創造的にするための手法を多く考案した。エジソンは孤独の一人の天才ではなく、イノベーションネットワークの作り手であった。 電球の発明からフラッシュの発明、ネオンの発明、人工太陽=核融合の話へと話は展開されていく。写真のフラッシュの発明により、暗くて見えなかった貧民街に光が当たるようになり、見えないものが見えるようになったことで手が差し伸べられるようになる。最初のフラッシュが物好きな貴族さまによってギザのピラミッドの中でなされたという話は面白かった。