AllisPossibleIfOnedesires

MasashiSalvador(在日東京人) / 茶道 / 音楽/ 映画/ 雑記

続かない旅行記でも書き始めようか

旅行

修論を終えて、逃げるように海外へ逃亡し、今はアルメニアに居る。3月1週目までにクロアチアザグレブまで行く予定なのだが、明らかに日程が足りない。コーカサス諸国を大急ぎで抜けようと思っていたのだが、今日イェレヴァンの町中で女の子に絡まれ、その子に木曜日に日本文化を紹介することになったのでコーカサスパッシングは見事に失敗である。最悪の場合、イスタンブールからザグレブの間を飛行機で飛ぶことになりかねない。しかし、それでも良い気がしてきた。

一人旅

一人旅をしていると、どうして一人旅をしているのか途方にくれることがある。特に、同じ国に居続けるとそういう感じが強くなる。旅の表層部分である、訪問している国の真新しさ、それは文字であっても、言語であっても、食文化であっても、宗教であってもなんでもいいのだが、新鮮味が失せていくと同時に夜の街歩きの魅力が半減とまでは行かずとも減少する。その上で楽しめるかが鍵になってくるのだが、一人で居ると新鮮味の谷、もしくは沼に心が落ち込んで、宿で延々と本を読み続けたりと、旅先でなくてもできることに時間を費やしてしまうことがある。多分、僕の中には一人旅に向いていない部分が多くあるのだろう。決して日本語が恋しいとかそういうことではないのだけれど、その谷に心が落ち込んでいるときは、今この瞬間に「みんな」のいる場所に居たいという不思議な感覚が強くなるのだ。ただ、これは旅行中だけではない。普段日本にいる時も、時たまにこういう谷間に気分が落ち込むことがある。だからこの心の性向は、別段一人旅の得手不得手とは関係がないのかもしれない。

祈りの空間

いくつもの巨大なモスクやアルメニア教会を見た。石造りの一神教の祈りの空間は、木で作られた多神教の寺院に慣れた僕にとってはとても遠いもののように思われる。冷たい外気をそのまま反映し、時には内部を外部よりも冷やす分厚い石造りの祈りの空間、内部の空間構成と装飾は対称性が過度に強調され、人びとはそこでただ一心に祈っているようにみえる。ただ、実際の所、祈る姿を演じているのか、祈っているのかは分からない。演じること自体が祈りの形式である可能性も高い。むしろ、一心不乱に捧げるように振る舞うことで、宗教という大きな物語の中に自分を位置づけるのだろうか。モスクもアルメニア教会(多くのカトリックの教会)は、内部への陽光の侵入を静かに拒んでいるように見える(もちろん、同時に、積極的に、選択的に取り込んでいるという風にも考えられる)。光なき静謐な空間こそが祈りに必要であるからだろうか?太陽神なんていうものも存在するけれど、もしかしらた一神教の世界において太陽は敵対すべき光なのではないだろうかなんて考えてしまう。太陽はこうこうと天に輝き、ある意味で自然の代表であると考えられる。良くも悪くも、人間は太陽の意向には逆らえずに生きている。教会やらモスクやらというのは、一旦は自然の代表を拒絶することで祈りの空間を構成するのかもしれない。日本においては、天照というのは非常に位の高い神様であるのだけれど、それは多分日本の自然というのが一神教世界のそれよりも優しいからではないか?(と思ったが日本は台風やら地震やらを抱えていて、自然が常に優しいわけではない)
答えが出ない。

さしあたって

さしあたって、旅行記を書き始めようと思う。スペインの旅行記も未完成のままであるから、こちらも順次(ただし写真が日本にあるので帰国後に)書き足していこうと思う。
というのも、旅行記をつけているノートを見返していたら、1年前にした旅行の旅行記が自分にとってかなり実りの多いものであったからである。1年前の自分の半分は他人なんだなと実感させられる今日このごろです。