AllisPossibleIfOnedesires

MasashiSalvador(在日東京人) / 茶道 / 音楽/ 映画/ 雑記

古代檜の風呂に入って感じた清らかさについて

秋の始まり(夏の終わりとは敢えて言わない)に、湯河原の温泉に行ってきた。
台風が来ると言われていたが、行ってみると快晴、夜に台風が熱帯低気圧?に変化したと聞いて一安心、夜は檜風呂が男湯ということで、食事からだいぶ時間が過ぎ、人ももういないだろうと思われる時間に風呂へと向かう。

選択というか読みは正解で、檜風呂は僕一人、貸切状態だった。
風呂を見る前はあまり期待してなかった。風呂桶が檜というのは他の温泉地でも見たことがある気がするし、その時も対して感動した覚えはないからだ。

参考 湯楽自慢の源泉掛け流し温泉 | 湯河原温泉旅館 源泉かけ流しの湯 オーベルジュ湯楽ここの檜風呂です。

ガラガラとガラス戸を開いて内部へ、いい香りが立ち込める。なかなかやるなと思った。
香りが空間全体を規定している。淡い電球の光が檜の風呂桶を照らし、チョロチョロと源泉が流れこむ音だけが響き渡る。とりあえず体を洗い、風呂へ、この時は長風呂なんてする気はなかった。

入る。ぬるいけれど、ちょうどいい温度。
貸切状態の風呂で、足を思い切り伸ばす。寄りかかると、距離が近くなったからか香りが強くなる

二千年の古木に囲まれた人肌くらいの温度の湯に、古木の成分が染み渡り柔らかく体を包み込む。空間になる音は水の音だけ、僕が入ると、風呂桶から僕の体を満たす分だけ湯が追い出され、その音が響き渡る。淡い光と良い香り、空間全体に調和があった。静けさと清らかさを全身に感じると、日々の考えはもちろん、その時頭に浮かんだ物事もどこかへ溶けていってしまうような感じだった。清らかさは不要なものの存在を許さないんだなと感じた。体も心も何処かへ溶けてしまい、檜がかつて住んでいた深山幽谷の地へと飛ばされていくようだった。

普段長風呂をしない僕が珍しく長風呂をしたのは、そんな調和と清らかさのせいだと思う。
それに一役買っていたのは明らかに古代檜だ。なぜなら、それは人間のモノサシで図れる時間を超える圧倒的な自然だからだ。年月を超えた古い自然に値してある種の畏敬の念を抱き、無駄なものを廃した清らかさとともにそれと調和するときに生まれる美は、日本人の琴線に触れる独特の美しさであるように思える。今回の檜風呂に関していえば、他のものがどんなに高級であろうと(例えば中東のハマムのように)自然の要素がなければ(それだと檜風呂ではないのだが9僕が長風呂をすることはなかっただろうなと。
清らかさの中にいると、不要な考えは廃されて、最小の考えだけが頭に浮かぶ用になり、感覚が研ぎ澄まされる。調和を乱す行動はひどくしづらくなる。例えば、風呂桶の中で思う存分動いたりすることは、水面に不要な波を立てるので、積極的に行いたくはなくなる。ただじっと、自分が調和の中にいることを感じつづける。調和が乱されない限り、それはなんとも言えない心地よさを生み出し、時には時間のモノサシを狂わせる。狂わせるというよりは、調和がもっているある種の絶対的に善いモノサシの状態にリセットさせようという力が働くんじゃないだろうか。それで、僕らはそれを癒やしと感じる。普段のモノサシはひどく規則的で、生活の中でそれをズラさないことが良しとされる。清らかな調和の中にいることで、そんな状態になったモノサシが開放されて、都度調和状態になればいいのだと、感じさせる。

と思うと、節目に神社に行ったりするのもなんとなくそのためにやっている感がある。年末年始のリセットはともかく、例えば合格祈願だって、祈るときに何らかのリセットが行われるのだ。神を信じるとか信じないとかではなく、清らかさの中に少しでもいることで、リセットするために神社に行くのだ。

茶道における和敬清寂、その清の意味を、今回少しわかれたように思う。
空間と調和を作り出す。そういう文化を、これからも愛していきたいし、受け継いでいきたいなと
ふと、風呂桶を出るときに思った。

以上、レポっす!!