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MasashiSalvador(在日東京人) / 茶道 / 音楽/ 映画/ 雑記

今更かよノームコアについて

ぱっと見だと穿った感じになってしまう

 2014年にチラチラと目にしたノームコアという単語の意味合いについて、いまさらながらまとめてみた。
ウェブに出回っている記事にのタイトルをチラチラ見たりすると、なんだボロボロの服を来て侘び寂びだよぉ〜って言うのとおなじ感覚なのかな?と誤解してしまっていた。穿った見方をすると、金持ちとかイケメンとか美女が、いわゆる「普通の人」が着る服を来て面白がっている天上人の遊びの一種かな(そして僕らには無縁である)
 簡単に言うと、見た目を差異化して個性を主張し、対立や孤立することよりも、あらゆるものに順応できる装いに身を包み、あらゆる集団に所属できるようにして自由を勝ち取ろうということらしい。
大事なのは、本質的には服がどうこうというよりは、内面をチューニングしようぜ!っていう流れだってことだ。

Individuality was once the path to personal freedom — a way to lead life on your own terms. But the terms keep getting more and more specific, making us more and more isolated. Normcore seeks the freedom that comes with non-exclusivity. It finds liberation in being nothing special, and realizes that adaptability leads to belonging. Normcore is a path to a more peaceful life.

(K-HOLEの資料より)

気持ち的には、大量情報社会への反動

 現代のファッションは差異化の極限として、いままでとこれからとで何が違うのか簡単には判らない状態に収束し、「違い」を主張することのコストがものすごく高くなっている。違いを主張するためにはロジックが必要である。誰彼と違うこと、誰彼と異なる個であることを声高に主張するためには、ある程度のロジックが必要である。そのロジックが弱ければ弱いほどアイデンティティはゆらぎ、集団の中での個としての存在感は希薄になっていく。差異を追求するのに必要なコストが高いということは、アイデンティティを確立するのに多大なコストが掛かるということだ。酷く矮小な例をとってみると、よく遊ぶ仲間内で「XXXはYYYだ」「EEEはFFFだ」といった主張をファッションで示すことが大変難しくなっている。被り=他人と差異がないことを警戒するとか、いちいち自分の所属集団が何であるかファッションで表明するために必要な労力が大きすぎて、クールであり続けるのはつかれることになってしまったし、いつしかそれがクールでなくなってしまったのだ。
 例えば、最新情報を追うためにRSSを逐一チェックしたり、クールな奴のtwitterFacebookを追いかけたり...疲れますよね。

「かのように装う」ことが不可能になった

 クールであることはクリエイティビティと強く結びついている。例えばラップが上手かったり、ギターが超絶技巧であったり、イケてるデザインができたり、スケートが鬼のように上手かったりといった具合だ。インターネットがこんなにまで普及する以前は、ファッションを利用することで、自分のところに創造性の高い人のイメージをコピーしてきて、自分にも高い創造性が備わっている「かのように装う」ことが可能だった。
実際に対面で会った時に見た目で判断されることの方が、インターネットを介して他人に判断されることよりもはるかに多かったから、自分につきまとうイメージをクールに保つこと=クールな装いに身を包み、「かのように装う」ことは非常に重要視された。
 しかし、インターネットと音楽/芸術創造のツールがこれだけ一般に普及した後で、ふと辺りを見回してみると、どうも「かのように装う」ことが無駄ではないかとみんな気付き始めた。なぜなら、高いクリエイティビティを持った人が普段どういうことをしているかが明らかになってしまったからだ。高い想像力を持った人は自分の作品や制作風景をYoutubeやらSoundCloudInstagramに投稿し、それがコミュニティの中で流通して、コミュニティのみんなが知ることとなる。すると、「あいつ普段パッとしない格好しているけど、こんなにすげえやつだったのか」とか「あいつ超絶ラップうまいのに…普段は意外と普通のカッコしてるよな」など、クリエイティブな人の実態が明らかになってきた。
それと対照的に、「あいつあのファッションなのに…」というふうに「かのように装って」いた人たちが実はあんまりイケてないことが明らかになってしまった。 
 結局、イケてる奴はイケてることやってることが明らかになってしまったから、わざわざ見た目を取り繕うのに金や時間を使うのが馬鹿らしくなり始めたのだ。バカらしくなった結果、見た目を取り繕うのはクールではなくなった。

順応/同化が理想

 イケてるの考え方が外面から内面へと向かっているから、わざわざ個を主張して孤立する必要がなくなった。外面で個を主張するメリットは、孤立以外の何物ももたらさなくなった。イケてる活動をしていれば、イケていると思われ、ファッションで所属を示さなくとも、同じような活動をしている人が集まってくる。
どんな人であれ、イケている人はイケているから、わざわざ対立するよりは「すげえ!」って認め合ったほうが自分も相手も幸せになる。同一性を受け入れることがクール、何者でもない自分を自覚することがクールと言うよりは、順応性の高いほうが幸せになれるよね。といったライフスタイルを表しているのがノームコアである。
順応性の高さを巷で言われているユニクロやら無印で買ってきた服で示すのは形式の1つであって、全てではない。

結局どういう服着るんだってばよ...

結局僕自信もよくわかっていないけれど、下記ブログの引用に少し納得感があったので掲載します。

面倒なことは抜きにして、ファッションとしてノームコアを実践するならば、多分いま別に汚れても良い服を引っ張り出してきて着ればいいわけです。そうすると、多分自分がいまいるところで、一番目立たない格好になると思います。ノームコアは広く普通を目指すというより、単に「普通」なだけなので、大学生アラフォーの男性では違いますし、大学生で所属サークル、大学などによって大きく異なると思います。そこで一番皆がしているような感じ。印象に残らない残らない感じ・これがポイントでしょう。

ノームコア:7億分の1を自覚するためのファッショントレンド - The 42 Of Spaghetti


服であえて主張しない、普段通りの格好をしているってことがポイントに思われる。

一方、意識としてノームコアを実践しようとすると、それ「で」よいの「で」の価値を高める荷印をやらないことになります。それは本物らしさの追求になり、単にシンプルだたりミニマル/定番であるだけで、例えばカッティンやパターンが凝っている、質がk高いなど、本物らしさを追求してしまうことになるわけです。そうではなくて、あくまで周りと溶けこむような、「いつもどういう服を着てるのかなんて気にもしてなかったよ」と言われる位のものにして、服を着ていること自体でなにか価値を生み出さないこと。これはマイナス価値でもダメです。

ノームコア:7億分の1を自覚するためのファッショントレンド - The 42 Of Spaghetti

本物っぽい見た目を追求しだすと本筋から外れるっていうんだから難しい。
とにかく、見た目の問題をどうこうするんでなくて、内面をチューニングしましょうってことなんですかね。

ノームコアは考え方だってことを理解せずに巷で騒がれているノームコアっぽい装いに見を包んでしまうと、
「あいつ内面も外面も普通の本当になんでもないやつになっちまったぜwwww」ってことになるんだろうか...

参考にしたブログなど


ノームコア:7億分の1を自覚するためのファッショントレンド - The 42 Of Spaghetti


“ノームコア”は単なる「全身ユニクロ」じゃない! ファッションのプロに聞いた“中身重視型トレンド”|ウートピ


“ノームコア”は単なる「全身ユニクロ」じゃない! ファッションのプロに聞いた“中身重視型トレンド”|ウートピ


2014年ファッションの裏トレンドは「トレンドの消失」 - 1ページ目 | Fashionsnap.com


「ノームコア」で行こう!気張った服はダサい | オリジナル | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

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