ジョーカーを見た (1) 善悪 / 想定の内外を自己規定する快楽の物語
すごい映画を見た。まだ咀嚼しきれていない。
一旦、今の理解としてはージョーカーというタイトルそのものが巧妙に仕込まれたジョークであるように思える。 アーサー・フレックは皆のよく知る「ジョーカー」であるか?というと、今の理解では、僕はそうではないと思う。多分彼は人々が考える「正史」としてのバットマンのどのジョーカーにもならない。
今の(ひとつの)理解としては * 全編が現実(!=妄想) * 恋人のくだりだけ、この理解だと解釈に無理があるようにも思える * アーサー・フレックは皆のよく知る「ジョーカー」にはならない * ジョーカー(もしくは監督がインタビューで)言うように「政治的な意図はまったくない」 * それ故、格差の問題などを扱ってはいない * 何が快楽で何が善、何が悪かを選び取る一人の男の物語 * ポスト・トゥルースの時代において客観的な事実/真実よりも個人の感情や価値観が優先されることの快楽であり狂気 * (生まれてはじめての)快楽を感じるごとにアーサーは本能の発露として踊る
見る度に心の奥底にある何かを刺激される類の映画、確実に最高の作品の一つだろう。
一言でいうと
「他者のまなざしから逃れた主観的な喜劇(=快楽)を人間は定めなければいけないし、その自己決定の不条理こそが人生である」ことを歌った「不条理な人間讃歌」
である。
アーサーの苦悶のノート(=ネタ帳)や劇中のセリフには何度も「他者からのまなざし」を感じさせるセリフが散りばめられている。他者から正常に振る舞うことを求められること、誰にも目を向けてもらえないことなどだ。コメディを見に行っても彼は他人が感じている面白さを感じることができず、一歩ずれて笑う。職場で小人をネタにしたジョークを聞いて作り笑いをする。彼は一度も心から笑ってはいない。なぜなら、何が面白いのかを理解できないからだ、彼の中に快楽のエンジンが備わっていないからだ。
それではアーサーが快楽を認識するのはいつだろう。それはおそらく、(妄想だという意見もあるが)地下鉄内で3人の男を撃ち殺した後のことだろう。この時点では彼は快楽を咀嚼できていない。論理で理解できない感情の動きを感じて一人で鏡の前でかく美しく踊り狂うのだ。なんだかわからないが心地よい、その感覚が彼を舞わせる。「おもしろさ」を理解できなかった人間が生まれてはじめて「おもしろさ」を感じた瞬間だ。ぎこちない、それでも尚美しい、鏡の向こうには自分がいる(それは今までに見たことのある自分だろうか?)。感じたことのない感覚で身体が爆発しそうになる。止めることができない(そしてその快楽は多分、初めての恋人とキスをした時の衝動的快楽に似ているだろう)
作中で彼は三度舞う、それぞれが異なる快楽を背景にしているように見える。2回目のダンスは元同僚を撃ち殺した後の、向こう側に下り坂を栄光のスポットライトかのように照らし出す光を見ながら階段を駆け下りるシーンだ。この時点で彼はすでに快楽がなにか、何が自分にとって善であるか悪であるか(その線引をどこに持つか)を決定している。自己を確立した彼は、今度は軽やかに楽しそうに踊る。自分のリズムで、誰に妨害されることもなく、誰かの定めた価値観に縛られることもなく。テレビの前でこの後に快楽を世の中に叩きつけるという高揚感が彼を駆り立てる。
三度目のダンスはなんだろう。あたかもステージ上でスポットライトに照らされているようなカットが少しの間入るあの瞬間。ピエロを被った群衆から立ち上がる歓声と祝福の声。車の上に乗る彼は血塗られた笑顔を描ききって、ひときわ大きく笑う(という、口を象った血により、大きく笑っているよう見える)あたかもそれは(薄っぺらい)承認の快楽を表しているように見える。しかしそれを単純な承認の快楽として片付けたくはない。その点はまだ、咀嚼しきれていない。
最終的に彼は逮捕され、精神病院に送り込まれる。高らかに心から笑った後、外に出て。駆け出すように、踊るように逃げ出す。
笑いについて
多分彼は「まなざしに怯えている」だけで病気ではないのだろう。という理解をした。眼差しに怯えている時の笑いは咳を伴い。価値観を確立した後の笑いは咳を伴わない。
アーサーの特徴である突発的な笑いに注目して鑑賞すると、当然ではあるが笑いには幾つかの質があり、その質的差異が案外重要なのではないかと気付かされるように思える。実際の所アーサーが感情(や不安)の発露として突発的に笑い出す場面はそれほど多くない。僕の覚えている限り下記がそれに該当する
- 最初のカウンセリング
- バスの中の子供に対して顔芸をする場面
- 地下鉄内(3人の男の殺害の原因)
- ステージ上(SHOWに出演するきっかけ)
下記のシーンでは不気味な笑い声を出しているのだが、質的に異なっていると感じた。
- 精神病院の階段
- 最後のシーン
というのも、前者4つは笑った後に咳き込むなどして苦しみに喘いでおり、後者2つは苦しみがあるようにみえなかったからだ。(精神病院の階段に関しては記憶が曖昧である。もう一度見なければ行けないかもしれない)喜劇的なものを自分の中に持った後のアーサーは、それまでのアーサーと質的に異なる笑いをするのだ。
劇の途中までのアーサーは他者の笑いのポイントを理解することができない。それ故、コメディアンのショウを見に行っても笑いのタイミングがずれるわけだし、小人が笑い飛ばされるときも作り笑いをしてすぐ真顔になるなどするわけである。
タバコ
タバコを吸っていることが妄想/現実の境目だという意見が見えたが、割と同意している(が整理しきれていない)
メモ
鑑賞後、どのようなコンテクストをもった観客であれ、価値観や自意識、人生観をに強烈に揺さぶられる映画だ。それはまるで、心のどこかに突き刺さって離れない金属片のように、傷が浅いか深いかも分からず、取り憑かれ続けることになる。映画館を出た後の日常の行為が、普段と決定的に異なっているように見える。階段を降りる足取りも、地下鉄の中の光景も。金属片は一つの「想定の範囲内」ではないものであり、ヒース・レジャー扮する「ジョーカー」がデントに言い放つ所の恐怖である。混沌の本質である恐怖、自身の中にある「想定」の恣意性と観客は否が応でも対峙せざるを得なくなる。そしてそれは冒頭部、ただのピエロ姿の男(≠ジョーカー)が不良少年たちに虐げられるシーンに黄色文字のJOKERが重なった瞬間から始まっている。想定に関する恣意性との対峙、それに伴う自己決定権の回復、両者を求められるが故、これほどまでに心に張り付き続けるのだろう。社会から排除されて明示的に奪われている者にとっても、「正常な」生活を送ることができ、あたかも自己決定できているかの幻想を抱かされている者にとっても、幻想が打ち砕かれるその瞬間の快楽、心のどこかにしまい込んでいた自己
前提条件としてはホアキン・フェニックスの演技、シーンに合う素晴らしい音楽達、美しいダンスシーン、過不足のないプロット、美しい絵、挙げれば切りがないし、文脈を巡る一映画ファンの妄想なんて書き連ねても何も得るものはないから何も記さないでおく。映画ファンの皆さんはせいぜい「犬殺しに気をつけて」ほしい。
考えたい点
- 作中アーサーは2度泣く、アーサーは何に涙しているのか?
- ピエロに扮しているときしか泣けないのだろうか?
- アーサーの感情の発露としての震え
- 単純な怒りか
- 冷蔵庫
- 中身を取り出すことが何を意味しているのか
- 繰り返される自殺のリハーサル
- 銃で自らを撃ち抜こうとする - やはり全部が妄想か?
- 夢と現実の境目
- ラストシーン・血塗られた足跡