2025年の振り返り "software is still eating the (intellectual) world", 強慾でない人間は退場するかもね
2025年を振り返ると当然のように様々なできごとがあり、一つ決断をした年でもあった。 三井物産デジタル・アセットマネジメントのCPO/CTOとしては至らない点も(特に開発プロセス全体をLLMを前提に切り替えていくこと)も多かったが、開発チームのみならず様々な人に支えられて、開発チームの人数も増え、開発チームの分割(3チームへの分割)も行えた、組織づくりの一年だった。個人としては、タブすら押さなくなっちゃったな、みたいな寂しい気持ちがある。
LLMでsoftware is still eating the (intellectual) worldがおこりつつあると痛感した一年だと思ったし、AI時代に必要なのは強慾さだとも思った。
CPOとしてトライしていたこと 〜プロダクトにより認知を変える〜
就任した時にPを先にすること、TechnologyよりもProductを統括するという思いを込めた通り、TechnologyのことよりもProductのことに力を注いだ一年だった。特に、開発中のALTERNA(オルタナ)|三井物産グループが始める資産運用サービスに関しては、「顧客接点としてのプロダクトが最も顧客の認知を形作る」という仮説のもとで、ともすれば単なる販売所になりがちなプロダクトを、販売以外の顧客接点を持てるサービスへと作り変えようと試行錯誤していた。
あたりまえのことだが「売る」ことに注力したサービスにおいては、顧客はサービスのことを「買う(売る)ための場所」として認知する。半ば惰性で売るための機能を提供することは(数字も見えやすいので)相対的にイージーだが(もちろん、売るのはむずい)、認知を変えることができるのは腰を据えたプロダクトへの意思だけなのだと思った。
とか言ったが、売上は売上で大切なので、要はバランス(個人的に要はバランスおじさんみたいなモノは軽蔑しているが)を取りながら機能を追加していかねばならないわけで、基礎体力としての施策を当てていく力、というのは開発チームにとっては非常に大切だ。流量の多い所に小改善をクイックに入れていく組織構造というのは(後述する開発スピードが加速度的にモノを言う時代に)競争力の源泉となるので、今後も自律的(かつ体力のある)チームづくりに力を入れていきたい。
知的作業が根本的に変わってしまった世界では強慾さが物を言う
正直なところで言うと最近あまりコードを書いていない。が施策はリリースしているという状況になっている。Claude Code + sdd かCodex、もしくはCursorのplanモードをぶん回している。とはいえ、大体Claude Codeだ。Claude MonetのTシャツを着ている人を見てあの人もLLM使いだ!と思ってしまうくらいにはLLMに染まっている。
タブすら押していない。LLMはコードの補完くんではないからだ。知的生産物であるアイデアを、別の知的生産物であるソフトウェアに変換してくれるくんだ。LLMによって、あらゆる知的生産プロセスは(経営さえ!)置き換わってしまうだろうと思う。少なくとも、今の十倍の性能に(恐らくなると思うが)なったらもう人間の出る幕は趣味の領域以外になくなってしまうだろう。それは多分喜ばしいことでもあり、悲しいことでもある
ポートレイト写真などのAI生成を(視覚的にわかりやすいので)繰り返していると、構図やライティング、レンズの選び方やロケーションごとのポージング、メイクなど、様々な生産プロセスは分解できることがわかる。分解して再構築することでコンテキストの節約にもなるし、安定していい写真が「生産」できるようになる。存在しないものを撮るという意味で、心霊写真みたいなものを「生産」しているわけだが、写真とは何なのかという気持ちになる(偶然にもソンタグの「写真論」を読み返している。『写真撮影は経験の証明の道であるが』という下りがあるけれど、AI時代に写真は何も証明しない。むしろ、経験したいことを証明する。幻想の装置に成り果てている。
ややフェティッシュであることを自覚しつつ、生成したAIポートレイトを1枚付そう。これは場所は実在で、人物がAI生成である。
服装によってバイアスがかかるので、服を着替えさせたりすると写っている人物の顔が変わるのが面白い。AIを使いこなすことは、言葉や映像、画像のバイアスとの戦いなのかも知れない。
ソフトウェア開発においては、並列度が高いと脳が疲れるという問題があるし、結局QAプロセスなどは人間がボトルネックになっている。意志決定と企画立案がボトルネックになるし、逆にいえばその2つがスムースな組織は加速度的に成長すると思う。意志の力と企画の力、つまりこれは強慾さだ。強慾でない人間は退場することになる。強慾の壺にならないといけない。試合をして、デッキからカードをドローし続けろ。禁止カードをあえて使っていくような欲望が必要だ。AIは(現段階では)欲望できないのだから。
美的なものにしろ、知的なものにしろ、慾望というのは至高点への到達意思を持つ。それにより審美眼が磨かれる。 アウトプットの価値を高めるプロセスを、人間は会えなき慾望によって磨いてきたわけだけで、例えば、何かを生み出す時に複数のプロセスがあるのもそうだ、開発なら企画して仕様切って設計して、みたいな話があり、製品開発ならリサーチやコンセプト企画がある、その独特性が企業の競争力であったのだけれど、そのそれぞれの知的生産プロセスはAgentがこなすようになるんだろうなと思う。だから、強慾かつ審美眼があり、知的生産プロセスをAgenticに脱構築できる人が際限なく強くなる時代になったのだと思う。来年はもう木工職人とか、別の仕事をしているかもしれないね。これを書きながら怖いと思う。
マネジメントについて
人を動かすうえで感情と論理の二項対立で語られることが多いと思うが、両方ともツールなので適宜使えばいいと思う。マネジメントを語る人間というのは苦手なのだが、わたし個人の傾向としては「人は決してわかりあえない」という前提に立つことにしている(平田オリザ式である)https://amzn.asia/d/12uaemJ。
大体のことは話せば解決するという立場の人も多いと思うが、私は話したら解決しない。という立場である(というか、議論することを省略することも組織づくりの一つである。短期的に無駄なことはしばらく議論しない、というような、当然棚卸しは必要だけど)。なので、強制力が働くようなインセンティブ構造と「やらざるをえない」構造を作ることがマネジメントの責務だと思っている。今後も構造や仕組みを作ることを責任にしていこうと思っている。
展望
ソフトウェアが生産性を上げきるところまでまずは駆け抜けていきたいと思っている。正確性の要求される単純作業よりもむしろ、知識集約型の作業の方が(適切なレビュープロセスを構築することができれば)むしろAI向きなんじゃないかと思う。専門家と協力し、専門家の頭脳をLLMで実装していく、それにより専門家はより専門的なことに従事し、知的リソースがボトルネックになっている作業をスケールさせる。
ソフトウェアがまずは知的生産の世界を食い尽くし、世界をより良い場所にすることを願っているし、それに貢献したいと思う。インターネット発のテクノロジーには(アテンション・エコノミーの辛さも含め)功罪があると思うけれど、罪の方を認識しつつ、わたしにはコマを前に進める責任があるような気がしている。それが多分、わたしが背負っている時代性なのかなとも思う。
そのうえで、知的生産の食い尽くしの次は、ブルーカラー的な労働の食い尽くしがはじまってほしい。(そこまで生きているかは定かではないが)自分の介護はロボットにしてもらいたいとも思う。10年後食い尽くされていることが未来としてあるなら、その歯車を早く回したいと思う。
来年は(広義の)ソフトウェア開発を通じて、沢山の価値を生み出したい。(様々なことはあったが)ソフトウェアエンジニアで良かったと思った一年だった。
もっとソフトウェア的/手触りのある金融を目指して

※この記事は、MDMゆく年くる年2024 (アドベントカレンダー)3日目の記事です
お初にお目にかかる方も多いと思います。
三井物産デジタル・アセットマネジメントのCPO/CTOのサルバと申します。社内のソフトウェアプロダクトを統括しています。ここ数年はALTERNA(オルタナ)の立ち上げとグロースに関わることが多いです。
ソフトウェア的/手触りのあるってなんだ
わたしは2011年にMarc AndreessenがWall Street Journalに寄稿した”Software is eating the world”(https://a16z.com/why-software-is-eating-the-world/)という記事がとても好きです。ソフトウェアが基盤となっていく世界を個人のレベルで好もうと好むまいと、クラウドコンピューティング(そして現在は大規模言語モデル)以降の世界はソフトウェアが様々な事業領域を作り変える大きな流れの中にいます。
もちろんソフトウェア化がもたらすのは善だけではありません。けれど、10年前、20年前に比べると確実に手元にあるモバイルデバイスで個人ができることは増えていて、日々恩恵を受けています。ChatGPT Searchで調べたところ、2014年にはスマホの普及率は40%、2024年現在は97%のようです。
かつては(10年ほど前)は実家の母が手作りの製品をネット販売するためのサイト構築(時折データが「何もしていない」のに全部吹っ飛んだりする。直すために散らばった写真フォルダを漁らないいけないのだ!)を手伝うのも一苦労でしたが、いまでは誰でもオンラインストアを開けるサービスなどが普及していて、これなら手伝わなくても大丈夫だ、と思えるようになりました。細かな動作原理がわからなくとも、「触って分かる」状態=「手触りがある」状態に近づいた故でしょうか。
ギークのものだったソフトウェアが多くの人に開かれ「これなら母でも使えるかもしれないな」と思えるくらいの手触りを持っていることは大変良いことで、自分が恩恵を受けてきたその「良さ」を世の中に還元していきたい、という思いがベースにあり、ソフトウェア作りをしています。
ALTERNAはソフトウェア的な良さと手触り感の両立を目指しながら開発をしています。ソフトウェア的な良さとは
- 誰でも、どこでも、いつでも、サービスの価値を手に入れることができる
- スケール性がある=サービス規模の拡大と共にコストがマシマシにならない=顧客に低コストでいいサービスを提供し続けられる
- サービス改善の速さ、データを下にした製品・サービス開発
であり、手触り感は上記の通り、「良さ」が(詳細まですべて分からなくとも)肌で感じられるということだと思っています。
リアルな店舗の話でいうと、入店すると製品が並べられている、手にとって「いいな」と思ったらすぐに買える。そのような良い購買体験をソフトウェア上で表現できないか、ということを考えています。ALTERNAではそういう「手にとって、買う」ような体験を実現するために、(何日もかかる可能性のある)口座開設の前でも商品への仮申込ができる機能を提供しています。
金融領域で「手触り」を実現するためのトライアンドエラー
手触りの多面性
とはいえ、金融で「手触り」を実現するのはそんなに簡単なことではないというのがリリースからここまでの大きな学びでした。突然話は変わるのですが、わたしは茶の湯を10年ほどやっておりまして、まだ駆け出してではあるものの茶道具を購入することがあります。
茶道具はそれぞれ一点モノですし、モノであるが故に「触って分かる」ことがたくさんあるし、逆に言うと「触らないと分からない」部分がたくさんあります。重さ、手取り(手に取ったときの重さの質感)、色合い(照明条件で変わる)、温かみ、濡れたときの雰囲気の変化(購入しないと塗らせない)、茶映え(お茶が入ったときの見栄えの変化)、などなど…。

「手触り」というのは多面的ですし、逆に言えば、多面的であるがゆえにより立体的に感じられるものです。手に入れる前にも手触りの一端を感じることができ、手に入れた後は独特の手触りをさらに感じたいがために別のモノが欲しくなるという「手触りループ」のようなものがあります。、
(※MDMは茶道具商ではないので割愛されました)
手触りループのプロセスは「目利き力」が上がってくることによるところが大きいと思っていて、金融商品でも似たようなところがあると感じています。単なる情報として提示するのではなく、多面性を持たせることで、スマホ/PC越しであっても「手触り感」を伝えられればいいなと思っています。
実査(物件を見に行く)をソフトウェア開発メンバーも積極的に行っていますが、物理的に見ることで分かることもあるので、投資家の方向けに物件ツアーを開催したいねという話はチーム内で上がっています。また、画面上でもGoogle Earthを使って物件を俯瞰的に見ることができるようにしたり、ホログラム(ややSF的ですが)で表示できるようにできたら面白いかもしれません。
トライアンドエラーは難しいが、面白い
デジタル証券を販売するサイトであるオルタナはソフトウェアなので、小さく作って改善を繰り返すというソフトウェア的な作り方ができるのですが、掲載している商品は金融商品であり、スキームのようなポータブル(一度作ると横展開できる)な要素と、裏付け資産のような一点モノ的な要素があります。どちらの要素も、(ある意味当然ですが)ソフトウェアほど小さく作るのが簡単ではありません。

スタートアップ的なソフトウェア開発でいうと、MVP(https://blog.crisp.se/2016/01/25/henrikkniberg/making-sense-of-mvp)をつくて顧客(ALTERNAの場合は投資家)にプロダクトアウト的にぶつけてみて、小さなトライを繰り返して作りたいところなのですが、「使用/利用」できるものではないので、相対的に見ると、モノや一般的なサービスほど顧客からのフィードバックが得られるわけではありません。
金融商品を「小さく作る」ことの難しさの解像度が低かった頃は、テストマーケ的なもので探索的にニーズを把握しながら出たとこ勝負!をしようとしていたのですが、一年半ほど運用してみて、その方式だと難しいことが分かってきました。
そのため、よりマーケットインのアプローチができるように、ALTERNA内外のお客様にヒアリングを実施し、ニーズを把握する、コンセプトのテストをするような試みも社内で行われています。トライの数が改善と成長の角度を高めることになるので、小さく作る限界を把握しつつも、それでもミニマムに作る(=検討に時間をかけすぎない)ことへのチャレンジが、金融領域のスタートアップとしてのMDMの面白さであると思います。
ソフトウェア的な速さが十分に出せる領域ではクイックに試し(オレンジ色の領域)そうでないところは限界値を把握しつつ、適切な速度で世の中に出していく。この意思決定の難しさと面白さが常について回ります。
手触りの良さ、面白さでモチベーションを拓いていくために
オルタナの立ち上げ当初は「右脳で分かる」などとチーム内では言っていましたが、黎明期であるデジタル証券をより広めていくためには、先の図でいうところの「モノっぽい要素」、「手触り感」は重要ではないかと思っています。
投資検討自体は多分に左脳的な要素で、リスクとリターンのバランスを自己判断しなければいけないわけですが、モチベーションを開くきっかけとして右脳の要素=手触りの良さや面白さが働くと思っています。
自分は20代後半ぐらいまで投資/資産運用は面倒なものだと思っていましたし、得をしようとするにしろ、損をさけようとするにしろ、時間を割いて検討するのは疲れることだと思っていました。疲れる、やらない、=やらないといけない気がすると義務感が生まれ、さらに疲れる、結局やらない、でもやらないといけない….こんなデモチループに陥っていたのです。
モノそれ自体には、「こんなモノに投資できるんだ」「このモノだったら大丈夫そうだ」という言葉で説明されるのとは別の説得力が備わっていると思います(わたしが真贋わからない茶道具を買ってしまうのもそのせい)。投資なので損得は言うまでもなく大切なのですが…、損得の世界だけにいると疲れ切ってしまうので、手触り(ときにはオフラインイベントによる運用者とのつながりも含め)の要素と合わせることで、より良い投資体験を作って眠れる銭をアクティベイトしていきたいと思っています。
ソフトウェア化する世界に添えて (1)
マーク・アンドリーセンの "Software is eating the world"というパンチラインが大好きだ。個人のレベルで生理的に喜んで受け入れるにしろ、 嫌悪感を持って見ないふりをしようとも、合理性がある限り不可逆的に世界はソフトウェア化するだろうと思っている。 しかし「なぜそう思うの?」と友人や知人に問われたときに理路整然とした理由を返せていない自分がいるのも確かだ(元々人に説明するのは得意でないし、好きではないのだが) 少し整理を試みるためにブログに書き留めておこうと思う。
世界がソフトウェア化するとは?
定義は何なのか、具体的には何が起こりうるし、何が起こっているのか?答えられないと恥ずかしいように思う。 幾つかの現象に裏付けされた概念を統合した言葉がソフトウェア化であると思うが、下記のように整理できると思う 箇条書きをする前に、一応「ソフトウェア」の辞書的定義を確認しておく
コンピューターを動作させるためのプログラムや命令を記述したデータのまとまり
software | translate English to Japanese: Cambridge Dictionary
programs that you use to make a computer do different things
ケンブリッジの英英訳はなんかしっくり来ませんね...コトバンクの定義のほうがそれらしく見えます。 「プログラムや命令を記述したデータのまとまり」これはいいですね。 ソフトウェア化=プログラムや命令を記述したデータのまとまりとして世界を構成するあらゆる製品・社会システム・ビジネスが表現されるようになること と言うことができそうです。辞書って引いてみるもので、この表現は割と個人的にはしっくりしました。 そして、この=がもう少し具体的には何を表すかと言うと
- ソフトウェアがハードウェアや社会システム、ビジネスの設計などの様々な設計・アーキテクチャを規定するようになること
- =ソフトウェアで取り扱うこと(あるいはソフトウェア的に取り扱うこと)があらゆる物事の前提に置かれること
- ソフトウェアで取り扱う(もしくはソフトウェア的に取り扱う)とは?
- 物理的な実体を意識することなく機能を利用することが出来るようになること
- モノを送る (or データを送る)
- 移動する
- モノを瞬時に手に入れる(買う元を問わない)
- 泊まる(or スペースを利用する)... これは少し語弊があり、物理的な実体が本質的に価値を持つだろう
- コモディティとしての機能(or リソース)は使いたい分だけ柔軟に利用することができる
- 物理的な実体を意識することなく機能を利用することが出来るようになること
- アルゴリズムやロジックを改善することで、機能を質的に改善することができ、改善の反映が限界費用0で行えること
- それにより、高速に改善が行えること .... ソフトウェア化というより、プロダクト化に近いかもしれない
- アルゴリズムやロジックの実装や更新を柔軟にかつ望むタイミングで行えること
- 一度リリース・施行しようとも、後から質の改善を行うことができる
ソフトウェア化の流れを支えるもの
- ソフトウェアのリソース確保が劇的に用意になった
- クラウドコンピューティングの普及
- コンピューティングリソースを利用したいあらゆる主体がコンピューティングリソースを「所有」する必要がなくなった
- 計算資源の確保にかかるコストが固定費ではなく変動費に
- (近年は)機械学習・深層学習・データ解析を行う基盤のコモディティ化
- PCの普及によるプロダクトやサービスの制作・製造プロセスのデジタル化
- デジタル化が早かったもの(1) ... ニュース・音楽・写真・映画などなど、本来的に「情報」であるもの
- デジタル化が早かったもの(2) ... 手紙・会話 ... 「情報」の交換であるもの
- 常時接続課+スマートフォンの一般への爆発的普及による顧客接地面デジタル化(toC、もしくはリアルビジネスにおいて顕著に)
- 企業の競争力の原点=差異化の原点がデータに(性格には、ノウハウではなくデータに。人間のノウハウがロジックとし記述できること、もしくは深層学習的なモノで置き換え可能であることが示され始めた)
- 安価なカメラやセンサの普及による「デジタル化」or「データ化」出来る領域が拡大
- ソフトウェア的に取り扱えるものの増大
なぜ不可逆であり合理性があるのか
世界のある程度の部分を構成している企業の経済活動と競争を鑑みると、明らかにそこに合理性があります。企業の競争力を現在上げている利益の大きさと未来に上げることができる利益の期待値(もしくは、未来に上げることができる利益の期待値、だけでもいいかもしれません)と表現すると、
両者にソフトウェアが効果的に働くと言えますが、常時接続化とモバイル端末の普及により特に後者が加速したと思われます。モバイル端末というタッチポイントの爆発的な増大と、それを用いたデータ分析・リアルタイムの行動解析からの品質改善を用いることによる製品の改善サイクルの高速化が進みました。当然、ソフトウェア的・アルゴリズム的に取り扱えないと競争に負けてしまうわけです。実態のあるモノを売るサービスでさえも、販売経路はデジタル化されソフトウェア的に取り扱われているため、同様の競争に不可逆的にさらされます。また、エンドユーザがモバイル端末を用いない領域(例えばファミレスでタブレットで注文する場合や、焦点でリアルな購買行動をする場合)においても、別の安価なデータを取るデバイスにより、購買行動や傾向をデータ化してソフトウェア的に取り扱うことが可能になっています。他にもテスラなんかはよく例として挙げられますが、一度リリースした車のソフトウェアをアップデートすることで乗り心地や燃費の改善を行うことができるようになっているのです。農作物がどういう味になるかもデータで捉えることができそうですし、対面でもやり取りが前提となっていた医療や教育という領域でもインプットとアウトプットを明確に定めることでソフトウェア的な取り扱いができるようになっています(この辺りは別途整理します)
ソフトウェア化は進めば進むほど、ソフトウェア化されていない領域のソフトウェア化への合理性を強めます。なぜなら、利用範囲を拡大するための限界コストが0に近い(製造の限界費用がゼロに近い、もちろんマーケティング費用などはかかりますが置いておきます...)モノに対応していくためには、人で対応するには足りないからです。それゆえ、安全性や信頼性の担保、規制などなど、政治の世界を含むあらゆる物事も不可逆的にソフトウェア化しそうです
お気持ち
- 今後はプロセスのソフトウェア化が進む(単なるデジタル化ではなく、承認作業や確認作業を含むソフトウェア化、そしてそこにはおそらく、DLT的なものが用いられる)
- ソフトウェアで取り扱うためにアーキテクチャが変化していく
- データの標準化・業務の標準化が進む(はず)・規制のソフトウェア化が進む
- が、御存知の通り日本はその辺りの動きは遅れがち
- 一重にはソフトウェアエンジニアが少ないもしくは理系・文系が分断されていること、労働者の新たな教育の機会が削がれていることなどが挙げられると個人的には思っている
- エンジニアリングわかる人とか中小企業には少ないのでは?それに加えて、ハッキリ行ってしょうもないシステムで業務を効率化しようとして発注欠けると結構金とられるんじゃないか?(仮説) * 業務をソフトウェアに合わせるのではなく、ソフトウェアをカスタマイズしてしまいがち(仮説)
- 規制等がソフトウェア的発想で作られていない=人ででカバーという発想になりがち
- 人を採用すると固定費になるのでアレ(人か切りづらいのでソフトウェアで効率化しようという圧が弱い)
- エンジニアスクールを増やすより、業務の現場に出るおばちゃんにGASやVBAを勉強して欲しい
- 力仕事や体力勝負でないし、リモートでも価値を出しやすいので、より多くの女性がソフトウェアエンジニア的スキルをつけて世に出るのはすごい価値がありそう
- とはいえ、ソフトウェアエンジニア界はホモソーシャル
- セクハラ的発言も多く、女性が明らかに入りづらい -> この空気は打破しないといけないのでセクハラ的発言には厳しく行きたい
ジョーカーを見た (1) 善悪 / 想定の内外を自己規定する快楽の物語
すごい映画を見た。まだ咀嚼しきれていない。
一旦、今の理解としてはージョーカーというタイトルそのものが巧妙に仕込まれたジョークであるように思える。 アーサー・フレックは皆のよく知る「ジョーカー」であるか?というと、今の理解では、僕はそうではないと思う。多分彼は人々が考える「正史」としてのバットマンのどのジョーカーにもならない。
今の(ひとつの)理解としては * 全編が現実(!=妄想) * 恋人のくだりだけ、この理解だと解釈に無理があるようにも思える * アーサー・フレックは皆のよく知る「ジョーカー」にはならない * ジョーカー(もしくは監督がインタビューで)言うように「政治的な意図はまったくない」 * それ故、格差の問題などを扱ってはいない * 何が快楽で何が善、何が悪かを選び取る一人の男の物語 * ポスト・トゥルースの時代において客観的な事実/真実よりも個人の感情や価値観が優先されることの快楽であり狂気 * (生まれてはじめての)快楽を感じるごとにアーサーは本能の発露として踊る
見る度に心の奥底にある何かを刺激される類の映画、確実に最高の作品の一つだろう。
一言でいうと
「他者のまなざしから逃れた主観的な喜劇(=快楽)を人間は定めなければいけないし、その自己決定の不条理こそが人生である」ことを歌った「不条理な人間讃歌」
である。
アーサーの苦悶のノート(=ネタ帳)や劇中のセリフには何度も「他者からのまなざし」を感じさせるセリフが散りばめられている。他者から正常に振る舞うことを求められること、誰にも目を向けてもらえないことなどだ。コメディを見に行っても彼は他人が感じている面白さを感じることができず、一歩ずれて笑う。職場で小人をネタにしたジョークを聞いて作り笑いをする。彼は一度も心から笑ってはいない。なぜなら、何が面白いのかを理解できないからだ、彼の中に快楽のエンジンが備わっていないからだ。
それではアーサーが快楽を認識するのはいつだろう。それはおそらく、(妄想だという意見もあるが)地下鉄内で3人の男を撃ち殺した後のことだろう。この時点では彼は快楽を咀嚼できていない。論理で理解できない感情の動きを感じて一人で鏡の前でかく美しく踊り狂うのだ。なんだかわからないが心地よい、その感覚が彼を舞わせる。「おもしろさ」を理解できなかった人間が生まれてはじめて「おもしろさ」を感じた瞬間だ。ぎこちない、それでも尚美しい、鏡の向こうには自分がいる(それは今までに見たことのある自分だろうか?)。感じたことのない感覚で身体が爆発しそうになる。止めることができない(そしてその快楽は多分、初めての恋人とキスをした時の衝動的快楽に似ているだろう)
作中で彼は三度舞う、それぞれが異なる快楽を背景にしているように見える。2回目のダンスは元同僚を撃ち殺した後の、向こう側に下り坂を栄光のスポットライトかのように照らし出す光を見ながら階段を駆け下りるシーンだ。この時点で彼はすでに快楽がなにか、何が自分にとって善であるか悪であるか(その線引をどこに持つか)を決定している。自己を確立した彼は、今度は軽やかに楽しそうに踊る。自分のリズムで、誰に妨害されることもなく、誰かの定めた価値観に縛られることもなく。テレビの前でこの後に快楽を世の中に叩きつけるという高揚感が彼を駆り立てる。

三度目のダンスはなんだろう。あたかもステージ上でスポットライトに照らされているようなカットが少しの間入るあの瞬間。ピエロを被った群衆から立ち上がる歓声と祝福の声。車の上に乗る彼は血塗られた笑顔を描ききって、ひときわ大きく笑う(という、口を象った血により、大きく笑っているよう見える)あたかもそれは(薄っぺらい)承認の快楽を表しているように見える。しかしそれを単純な承認の快楽として片付けたくはない。その点はまだ、咀嚼しきれていない。
最終的に彼は逮捕され、精神病院に送り込まれる。高らかに心から笑った後、外に出て。駆け出すように、踊るように逃げ出す。
笑いについて
多分彼は「まなざしに怯えている」だけで病気ではないのだろう。という理解をした。眼差しに怯えている時の笑いは咳を伴い。価値観を確立した後の笑いは咳を伴わない。
アーサーの特徴である突発的な笑いに注目して鑑賞すると、当然ではあるが笑いには幾つかの質があり、その質的差異が案外重要なのではないかと気付かされるように思える。実際の所アーサーが感情(や不安)の発露として突発的に笑い出す場面はそれほど多くない。僕の覚えている限り下記がそれに該当する
- 最初のカウンセリング
- バスの中の子供に対して顔芸をする場面
- 地下鉄内(3人の男の殺害の原因)
- ステージ上(SHOWに出演するきっかけ)
下記のシーンでは不気味な笑い声を出しているのだが、質的に異なっていると感じた。
- 精神病院の階段
- 最後のシーン
というのも、前者4つは笑った後に咳き込むなどして苦しみに喘いでおり、後者2つは苦しみがあるようにみえなかったからだ。(精神病院の階段に関しては記憶が曖昧である。もう一度見なければ行けないかもしれない)喜劇的なものを自分の中に持った後のアーサーは、それまでのアーサーと質的に異なる笑いをするのだ。
劇の途中までのアーサーは他者の笑いのポイントを理解することができない。それ故、コメディアンのショウを見に行っても笑いのタイミングがずれるわけだし、小人が笑い飛ばされるときも作り笑いをしてすぐ真顔になるなどするわけである。
タバコ
タバコを吸っていることが妄想/現実の境目だという意見が見えたが、割と同意している(が整理しきれていない)
メモ
鑑賞後、どのようなコンテクストをもった観客であれ、価値観や自意識、人生観をに強烈に揺さぶられる映画だ。それはまるで、心のどこかに突き刺さって離れない金属片のように、傷が浅いか深いかも分からず、取り憑かれ続けることになる。映画館を出た後の日常の行為が、普段と決定的に異なっているように見える。階段を降りる足取りも、地下鉄の中の光景も。金属片は一つの「想定の範囲内」ではないものであり、ヒース・レジャー扮する「ジョーカー」がデントに言い放つ所の恐怖である。混沌の本質である恐怖、自身の中にある「想定」の恣意性と観客は否が応でも対峙せざるを得なくなる。そしてそれは冒頭部、ただのピエロ姿の男(≠ジョーカー)が不良少年たちに虐げられるシーンに黄色文字のJOKERが重なった瞬間から始まっている。想定に関する恣意性との対峙、それに伴う自己決定権の回復、両者を求められるが故、これほどまでに心に張り付き続けるのだろう。社会から排除されて明示的に奪われている者にとっても、「正常な」生活を送ることができ、あたかも自己決定できているかの幻想を抱かされている者にとっても、幻想が打ち砕かれるその瞬間の快楽、心のどこかにしまい込んでいた自己
前提条件としてはホアキン・フェニックスの演技、シーンに合う素晴らしい音楽達、美しいダンスシーン、過不足のないプロット、美しい絵、挙げれば切りがないし、文脈を巡る一映画ファンの妄想なんて書き連ねても何も得るものはないから何も記さないでおく。映画ファンの皆さんはせいぜい「犬殺しに気をつけて」ほしい。
考えたい点
- 作中アーサーは2度泣く、アーサーは何に涙しているのか?
- ピエロに扮しているときしか泣けないのだろうか?
- アーサーの感情の発露としての震え
- 単純な怒りか
- 冷蔵庫
- 中身を取り出すことが何を意味しているのか
- 繰り返される自殺のリハーサル
- 銃で自らを撃ち抜こうとする - やはり全部が妄想か?
- 夢と現実の境目
- ラストシーン・血塗られた足跡
「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア (9/200)
本の感想を書き留めておく程度のブログでも三日坊主になってしまうのは中々悲しい話だ(何か感想を書こうと思って書き留めたメモはたくさんある) 噂の広まり方やSNS上の情報戦の実態を肌感を持って知っておきたかったので下記の本を読みました。

- 作者: P・W・シンガー,エマーソン・T・ブルッキング,小林由香利
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2019/06/20
- メディア: 単行本
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誰もが情報戦争の戦闘員に。その「シェア」「いいね! 」が殺戮を引き起こす
アメリカ大統領選挙、イスラム国、ウクライナ紛争、インドの大規模テロ、メキシコの麻薬戦争……。 国際政治から犯罪組織の抗争まで、SNSは政治や戦争のあり方を世界中で根底から変えた。 インターネットは新たな戦場と化し、情報は敵対者を攻撃する重要な兵器となった。 いまやこの戦場で人びとの注目を集めるべく、政治家やセレブ、アーティスト、兵士、テロリストなど何億人もが熾烈な情報戦争を展開する事態に!
なぜネット上に「荒らし」やフェイクニュースが氾濫するのか?
・フェイクニュースは、真実を伝える記事より約6倍速く広がる。 ・以前に聞いたことがあるニュースは、嘘であっても信じられやすい。 ・SNSで最も早く遠くまで伝わる感情は怒りである。
軍事研究とSNS研究の第一線で活躍する著者が、多数の事例をもとに新たな戦争の実態を解明。 SNSのグローバルな脅威を突きつける衝撃作!
佐藤 優氏絶賛 「誰もが戦争の当事者になり得る新種の戦争の本質に迫るタイムリーな一冊」 ――本書解説より
目次
- 開戦――「いいね! 」戦争とは何か
- 張りめぐらされる「神経」――インターネットはいかに世界を変えたか
- いまや「真実」はない――ソーシャルメディアと秘密の終わり
- 帝国の逆襲――検閲、偽情報、葬られる真実
- マシンの「声」――真実の報道とバイラルの闘い
- ネットを制する者が世界を制する――注目と権力を求める新たな戦争
- 「いいね! 」戦争――紛争がウェブと世界を動かす
- 宇宙を統べる者――「いいね! 」戦争のルールと支配者たち
- 結論――私たちは何を知っているか、何ができるか
感想
SF-loverのメーリングリストから始まったインターネットを利用したコミュニケーションは確実に過去に描かれたSF的な未来を生み出しつつある。 皆さん御存知の通り、そこでは人々が信じる物事が「真実」とされ、「真実」であることが証明できる物事がかき消される恐れがある。戦争や紛争はSNSを利用して行われるように成り、 アメリカ軍は戦争をシミュレーションするのと同時に、軍事訓練用の架空のインターネットを用意して情報線をもシュミュレーションしているらしい。それだけ、ロシアやISISが行っているような情報線は苛烈さを増しているのであろう。
感情が伝染することで社会に亀裂が生まれつつあるという意味では今の日本はまさそれだし、社会がネットワーク上のトロールと戦う力が弱まっているのも感じる。 インターネットは今日も地獄だし、特に日本に置いては先行きが不透明であるように思える。 必然としてのポスト・トゥルースの時代において、人間は幸せになれるのだろうか? 良きAIと悪しきAIはどちらが勝利するのか? テクノロジーで検閲性と透明性公平性の中間地点をうまく見い出すことはできるのだろうか?
開戦――「いいね! 」戦争とは何か
ISISがもたらした恐怖をもたらす情報の拡散にたじろいでイラク軍が撤退していき、ISISの台頭を許した様はナチスの電撃作戦を思わせる。 現代の情報戦は「物語」、感情、信ぴょう性、コミュニティ、情報氾濫を巧みに利用する。 インターネットはあらゆる秘密を守ることを不可能にした。真実を圧倒し続けるバイラル性がパワーとなるアテンション・エコノミー上では、 戦いの主体は双方に情報を拡散し情報に触れる人間の心理の操作を行おうとする
張りめぐらされる「神経」――インターネットはいかに世界を変えたか
インターネットの発展に関する賞。SF-Loversの誕生からインターネットの普及、Facebookの誕生まで。 いくつかの巨大な企業に独占されるようになった情報ネットワークはこれまでの通信網の発展の歴史に則っているとも言える。
いまや「真実」はない――ソーシャルメディアと秘密の終わり
インターネットとソーシャルメディアの発達により、秘密を守ることや記録を忘却させることはほぼ不可能になった。例えば、「マカカ・モーメント」... 失言が瞬時に拡散し永続化することで政治家の政治生命が奪われるように(かつてはあり得なかった)と呼ばれる事象が発生したり、エクササイズを記録するアプリから米軍の基地の場所がバレたり、ビンラディン襲撃作戦がたまたまあ世界に実況中継されることになったり、「気づかれない」軍事作戦がほとんど不可能になっていることなどが挙げられる。 また、OSINT(オープンソースインテリジェンス)の発達により、マレーシア航空777便の事件の原因がロシア軍にあることが突き止められるなどした。専業主婦の男が、YouTubeとGoogle Mapを駆使し、シリアの内戦に関するブログを執筆していた。アサド政権が神経ガスを利用した証拠などを集めていたが、彼がマレーシア航空の事件に関する調査プロジェクトを開始したのだ。ミサイルを発射した部隊まで特定し、実際に発射した人間をVK上のロシア兵の母や妻がコミュニケーションする掲示板的なもので探り当てたらしい。OSINTはかつてのCIAやKGBと同程度の情報収集能力を発揮する。 一般市民でさえもかつての諜報機関に匹敵する調査能力を持つのだから、この世に「秘密」など存在し得なくなっているのだ。
帝国の逆襲――検閲、偽情報、葬られる真実
ロシアではアラブの春の影響からVK上で反プーチン的なかきこみが増えたことをきっかけに、VK創業者を「自動車事故の犯人」としてでっちあげて逮捕しようと試みたらしい。結局VKの創業者はプーチンの息のかかった人間に株をすべて売渡し、国外に逃げる羽目になった。おそロシア。 文化大革命を招いたとして批判された群衆主義は習近平がインターネットを「世論を凝縮して一つの強力な民意にする」というビジョンを実現するツールとして称賛しだしてから返り咲きを見せ始めている。 ロシアでは大学を出た後に職を得ることのできなかった若者がインターネット上で偽の情報を拡散する仕事に携わっている。 アゼルバイジャンやインドでも除法操作のための影の軍団の動きがあることが指摘されている。
マシンの「声」――真実の報道とバイラルの闘い
マケドニアの若者が作り上げたフェイクニュースサイトがトランプ支持者によって多大に拡散され、結果的に大統領選に影響をもたらした。マケドニアではフェイクニュースサイトを作ることで若いギークたちが金を持つようになったので、それまではマッチョがモテていたスクールカーストが反転し、ギークがモテるようになったという。(「ローマ法王がトランプを支持」などの記事を拡散した) アメリカか(そして日本で)で最も幅広く広まっている「嘘」(ないしエビデンスが無いことが認められているもの)の一つに「反ワクチン」運動が存在する。フィルターバブル、エコーチェンバー、確証バイアス、そしてホモフィリーなどの人間の本質的な性質が嘘が超拡散する時代をもたらしている。人は怒りに任せて馴染みのある主張を何度も何度もシェアする。 ヒラリー・クリントンが関係する幼児性愛者の秘密組織がアジトにしているという噂のピザ屋に男が「正義感」から銃を持って乱入したのは2016年である。それ以来、各地でそのような事件が起こっていないだろうか?
ルーモアカスケード(噂の滝)を分析すると、偽りのほうが真実よりもより遠くへ。、早く深く広く拡散することがわかっている。
ネットを制する者が世界を制する――注目と権力を求める新たな戦争
一貫性と共鳴と真新しさが、人が情報を「物語」として捉えてシェアするための条件となっている。怒りは喜びよりも影響力があり、早く伝染する。また、「情動感染」と呼ばれる現象が知られており、他者との直接の相互作用がなくとも、怒りや喜びのメッセージを繰り返し見るだけで自分でも同じ感情を抱くようになる。人々が共感をもち信じるためには「信憑性」も大切である。
「いいね! 」戦争――紛争がウェブと世界を動かす
IDFとハマスの情報戦(IDFの方が圧倒的に強い)紛争地の幼い少女が情報発信の担い手として少年兵として戦争に参加させられている。 ハッシュタグの乗っ取り(美しい写真で抗議活動のツイートの量を圧倒したり) ロシアとウクライナのクリミアを巡る紛争の裏で行わっれている上皮応戦(親ウクライナ派が大量虐殺を隠蔽しているという偽情報なや、ウクライナ兵が少年を裸にして十字架に貼り付けにしたなどの偽情報お拡散)ソックパペットと呼ばれるいくつもの偽の人格を持ったアカウント群を操作する若者たち
宇宙を統べる者――「いいね! 」戦争のルールと支配者たち
コンテンツモデレーションの歴史(AOL -> Facebook -> モデレータ専業者の地獄)
結論――私たちは何を知っているか、何ができるか
水平思考ができないと嘘に騙される デンジャラススピーチ(社会のサブグループ感の暴力を促すものの研究から生まれた言葉) マイノリティ日台して、憎悪を掻き立て暴力行為を促すことを狙った公的発言を指す * 人間性を失わせる言語(人を動物に例えたり、不快なものを人間以下のように扱う) * 暗号化された言語(ミームの利用) * 不純さの指摘 * 鏡の中告発(自分たちこそが攻撃されているという嘘を付く) * 決めつけの正義感
<ヤンチャな子ら>のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す (8/200)
ふとツイッター上で面白そうな本を見つけたので読んでみた。東京生まれ東京育ち、どちらかと言うと東京23区のの西側で育ってきた身としては「ヤンキー」 というのはどこまでも架空の存在であるし、「ヤンキー」っぽい人というのもせいぜい実家の近所にある深沢高校の悪そうな生徒であるとか、その程度であった。 もちろん、夜な夜な渋谷に繰り出してくる悪そうな奴らというのは目撃はしていたし、僕の生活世界には存在していたのだが、本書で取り扱かわれている「ヤンキー」とは 性質がかなり違う人々であるように思える。

〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す
- 作者: 知念渉
- 出版社/メーカー: 青弓社
- 発売日: 2018/12/28
- メディア: 単行本
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TL;DR;
*「ヤンチャな子ら」の中にもある種の社会的な亀裂が存在しており、同質性にばかり注目して語ることは難しい * 学校内部では学校文化の一部として統合されているが、過程の経済状況などの外部の要因によって分断されている * 意思決定や選択が文化により規定されていると言うよりは、社会関係により規定されている
目次
序 章 〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィーに向けて 1 巷にあふれる「ヤンキー語り」と調査の不在 2 〈ヤンチャな子ら〉を調査・研究する意義 3 本書の目的と独自性 4 調査の概要 5 本書の構成
第1章 ヤンキーはどのように語られてきたのか 1 若者文化としてのヤンキー 2 生徒文化としてのヤンキー 3 階層文化としてのヤンキー 4 これまでのヤンキー研究の課題 5 分析の方針
第2章 〈ヤンチャな子ら〉の学校経験――教師との関係に着目して 1 〈ヤンチャな子ら〉と教師の対立? 2 学校文化の三つのレベル 3 家庭の文化と学校文化の葛藤 4 〈ヤンチャな子ら〉と教師の相互交渉 5 教師への肯定的評価と学校からの離脱 6 〈ヤンチャな子ら〉と「現場の教授学」
第3章 〈ヤンチャな子ら〉とは誰か――〈インキャラ〉という言葉に着目して 1 集団の曖昧さ 2 類型論的アプローチを超えて 3 〈インキャラ〉という解釈枠組み 4 文脈のなかの〈インキャラ〉 5 〈インキャラ〉という解釈枠組みのゆらぎ? 6 集団の内部の階層性
第4章 「貧困家族であること」のリアリティ 1 「子ども・若者の貧困」研究における本章の位置づけ 2 「記述の実践と しての家族」という視点 3 記述の実践としての「貧困家族」 4 アイデンティティとしての家族経験
第5章 学校から労働市場へ 1 〈ヤンチャな子ら〉の仕事への移行経路 2 〈ヤンチャな子ら〉の移行経験――六人の語りから 3 移行経路と社会的ネットワーク
終 章 〈ヤンチャな子ら〉の移行過程からみえてきたこと 1 〈ヤンチャな子ら〉集団内部にある「社会的亀裂」 2 重層的な力学のなかにヤンキーを位置づけた意義 3 「ヤンキー」と括られる人々の内部に目を向けることの重要性 4 アンダークラスとしてカテゴリー化することの危険性 5 〈貧困の文化〉か、〈社会的孤立〉か 6 社会関係の編み直しに向けて
気になったところ
- 本書で取り扱われている「ヤンキー」と呼ばれる層は学校や教師と明示的に対立しているわけではなく、学校文化と家庭文化(親からの影響の中)の間におかている。親からの影響によって肉体労働等の職業に将来の展望を見出してはおらず、同じ道を歩むことの将来性のなさも自覚しているが、学校を卒業することの意味も見いだせず、学校文化を異化することも同化することもできない状態に置かれている。そのうえで、教師が彼らのケアをしてくれることに関しては感謝をしており、その恩義にたいして報いることができないという後ろめたさが、学校から彼らを遠ざける一員になるなどしている。
- 外部から見ると「逸脱的家族」である貧困状況などを、当事者たちは「正常な家族」であると読み替えようと試みる。家庭内暴力が存在する家庭であっても、それと併存できる形での「家族の良さ」を自認しようと試みる。家族経験は集団内でも多様であり、一つの家庭内でも多様な経験をしている。そのため、彼らは時と場合によって家族を語る語り口を変える。
- 「社会的ネットワーク」=知人による紹介による就職などが、彼らが継続的に安定した仕事につけるかどうかの鍵を握っている
- 貧困層には特有の文化があり、それが彼らの選択を規定しているという捉え方をするよりも。彼ら個々人が保持している社会的ネットワークに注目したほうが筋が良さそう
- 安易にアンダークラスという語をつかってカテゴライズすることは適切でない
- 本書に出てきた学校の先生方が行っている「ヤンキー」と呼ばれる層に対する対処(ケア)は目を見張る者があった。社会に多くの良い教員が存在することが、社会の治安や分断が底抜けに成らないする前提条件として重要なのだなと素直に感服した。
トランスヒューマニズム: 人間強化の欲望から不死の夢まで (7/200)
シンギュラリティは近いだの何だのとシャレでは言ってみたり、前の会社の社長が東洋経済の記事を見て全社の前で「AIに仕事が奪われるぞ」と宣っているのを白い目で見たりと、プログラムが人間を超える的な考え方とは一定の距離を取り続けて生きてきているわけですが、単に巷で言うAI(バズワードになりすぎていて、そろそろ死につつあるだろう)ではなく、人体の拡張であったり、人間の不死化であったり、心のデータ化、精神をネットワークにアップロードしようとする試みだったり、死を超越したり、ネットワーク越しに意識を偏在させることを可能にしたりするテクノロジーには確かに夢があるわけです。そういった人間を超えていく試みを真面目に取り扱った書籍を見つけたので読んでみようということに。
いつか訪れる約束された死の基に人が生まれてくること、そしてそれを回避しようと死を避ける少ない可能性に賭ける少数の人々の試みに感極まり少し泣いてしまった。

- 作者: マークオコネル,Mark O’Connell,松浦俊輔
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2018/11/30
- メディア: 単行本
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シリコンバレーを席巻する「超人化」の思想 人体冷凍保存、サイボーグ化、脳とAIの融合……。 最先端テクノロジーで人間の限界を突破しようと目論む「超人間主義(トランスヒューマニズム)」。 ムーブメントの実態に迫る衝撃リポート!
目次
- システムクラッシュ
- 出会い
- 訪問
- ひとたび自然から出てしまえば
- シンギュラリティについてひとこと
- トーキン・ブルース―AIによる生存リスク
- 最初のロボットについてひとこと
- ただのマシン
- 生物学とそれに不満を抱く人々
- 信仰
- 死を解いてください
- 永遠の命のキャンピングカー
- 終わりと始まりについてひとこと
気になったところ
全体として、お話としては面白いし、語り口的に目の前である種の狂信者的人間が語っているような「身近さ」「リアリティ」を感じることができる書籍だった。 感情を司る神経を直接撫でられる感じがなかなかに心地よい書籍。個人的にはジャック・アタリ的なトランスヒューマンと、本書のトランスヒューマンが混ざり合う境界面を見てみたいような気がする。 テクノロジーにより極めて利他的に振る舞うことができるようになる人類。果たしてそれは幸福の運び手だろうか?
友好的なAIの開発について
友好的なAIを人類がいかに開発できるのか?という問い。AIなんてものはまだこの世に存在しないわけだけれど(それ故、ブログ著者はシンギュラリティについては懐疑的である)、アルゴリズムが人間に対して 必ずしも友好的に振る舞い続けるかどうか?に関しては世界はもう少し考えてもいいような気がした。AIの危険性に警鐘を鳴らす人たちは本書で「核兵器並みに危険性のあるテクノロジーに対して防御が少なすぎる」 と述べるのだが、「核兵器並みに危険度の高いテクノロジー」の満たすべき性質ってなんだろうと少し考えてみた。 ・使用することで大量の人の命を奪う可能性がある ・影響が時間軸に対して限定的でなく、世代を超えて脅威が伝達される可能性がある ・上記に加え、環境に対して修復不能な不可逆なダメージを与える。
マインドアップロードなどの技術に関して
Nectome社のやっている技術などの話。死ぬ前に脳を保存液に浸す保存液に浸された人は死ぬ。将来サイボーグとして復活するためにこのような手段を取るのだ。 古典ではあるがこの本などに精神転送、マインドアップロードについては記載がある。 https://www.amazon.com/Beyond-Humanity-Cyberevolution-Future-Minds/dp/1886801215 将来蘇るために未来の技術に自分を託すという選択をする人がごく少数ではあるが存在するということに少し心が震える。自分がその選択肢を提示されたとき、死を選ぶだろうか、それとも保存されうることを望むだろうか。 保存施設に保存された脳が世代を超えて守られる絵というのも神秘的である。幾重にも張り巡らされた予備電源....警備員や脳の状態をモニターするシステムにどれほどのコストが掛かるだろう?
社会運動としてのトランスヒューマニズム
トランスヒューマニスト党ではないが「国は不老不死を実現するための研究開発に投資すべきだ」という主張はあながち的外れでもないと思う。 例えば日本の悪名高い詐欺年金のような支給されない破綻した仕組みを延命するためにごまかしを重ねるより、潔く年金を廃止し、同じ量の資金を不老不死の研究に投資したほうが社会としては 健全なのではないかと思うが。どうなのだろう。
