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MasashiSalvador(在日東京人) / 茶道 / 音楽/ 映画/ 雑記

未開な死生観、免罪符を買うしかない

久しぶりの日記である。
はてなブログが使いやすくなっていて若干とまどっている。
最近はもっぱら本はkindleで買うことにしていて、積ん読になっている紙の本を処理するのに勤しんでいる。

世界がわかる宗教社会学入門 (ちくま文庫)

世界がわかる宗教社会学入門 (ちくま文庫)

今日は病院に行くついでにこいつを読みふけった。
240pくらいしかないし、平易な文章で書かれているのでさくっと読める。
アルメニアやイランなど宗教の力の強い地域を旅行するのは非常に刺激的なのだが、祈りの場において祈る人たちが何を祈っているのか、何に祈っているのか、イマイチピンとこないことが多く、セマナサンタやガネーシャの山車が町を行き来するのを見物しながら、自分がどうしようもなく外様に属していることを気づかされることが多々あった。

本書は、日本人は宗教音痴であり、それが典型的に現れているのが、何となく死後の世界があり、死んだらそこに行くのだろうと安直に考えてしまう点、安直な死生観に現れていると指摘する。葬式のときに仏教が現れるが、仏教における輪廻の概念に照らし合わせるとこの「何となく」の死生観は滑稽なものである。
復活を信じることも、死後の世界自体を否定する合理性も持っていない、ある種素朴な死生観を、我々日本人は持ち続けてきているようだ。
そもそも、葬式に仏教が登場するのが日本特有の事象であることを、本書を通じて知った。中国の仏教や、南アジアの上座部仏教では出家後の者が葬式業務を行うことはまずないという。日本の場合、江戸時代に宗門改めが行われ、各派の仏教が信者を増やすことができなくなった結果として、葬式仏教や生臭業務が盛んになったのだとか。幕府が仏教を堕落させる目的を持って宗門改めの施策を打ったとは知らなかった。

キリスト教についての記述、特に宗教改革周りと、仏教徒の比較については大変ためになった。
面白くて思わず笑ってしまったのは下記の引用である。免罪符の販売が強行されていた頃、ヨハン=テッツェルという修道士が語った言葉らしい。

<<お前たちは、紙と聖ペテロが呼んでいなさるのが聞こえないのか。お前たちの霊魂とお前たちの死んだ親しい者の救いのことを思わないのか。・・・・・・そもそもお金が箱の中でちゃりんと音を縦さえすれば、キリストの母マリアを犯しても許されるのだ。>>(「キリスト教史」Ⅱ:40)

ちょっと何言ってるかわからない感じですが...。しかし、ルターが免罪符に反対したのが、教会の金儲け主義に反対したからではないというの初めて知りました。教会=ローマ教皇に神の代わりに人間を救済する権限があるのなら、免罪符の発行は許容されるという立場だったようです。
免罪符に反対した理由はむしろ、そもそも聖書のどこにも教会がそういう行為で神の代わりに救済を担うということが記されていないという点にあるようです。聖書に回帰する運動が宗教改革なので、確かにこういう意味で反対したという方が中っていそうです。

また、聖書中でイエスの説法を聞いた民衆が「イエスが権威ある者のように話すのでおどろいた」のは、「権威ある」=「いばって」=「さも、自分が正しいかのように」という意味ではなく「権威あるもの」=「神を代弁するかのように」という意味であることを知り、理解が違ったことを認識しました。英語のauthority=権威というのは神由来のものを指すのでこういう意味になるとか。日本語にはない意味合いですね。

最後の章の「尊王攘夷論」に関してはまだ飲み込めていない部分も多いですが、各宗教とその宗教と共にある社会についてコンパクトにまとまっていて楽しめる本でした。