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MasashiSalvador(在日東京人) / 茶道 / 音楽/ 映画/ 雑記

ハイエクの経済思想: 自由な社会の未来 (6/200)

ティム・オライリーWTF経済を読む前にGov2.0などの関連でハイエクの思想のベースを掴んでおこうと借りてきた本。WTF経済はsafarionlineにあったので英語で読もうとしているが、心が折れて日本語で読んでしまいそうな予感を感じている。貨幣論とか自由論を読む前に基本的な考え方とか思想の流れを掴んでおきたいよね〜というノリで読んでいます (その割に、借りてきた本が専門書であるので、著者の方には申し訳ない次第である。でも薄っぺらい新書だと嘘書いてあったりするじゃない)

ハイエクの経済思想: 自由な社会の未来像

ハイエクの経済思想: 自由な社会の未来像

一貫して自由主義者であったハイエクは、知識や情報といった概念を社会科学に採り入れ、その重要性と位置づけを論じた先駆者でもあった。今世紀にはいってから急激に進展したハイエク研究の成果とインターネットなどの技術革新や社会変動をふまえ、われわれの社会の未来像について、改めて考えてみる。

目次

Amazonに目次がなかったので割愛

そもそもハイエクって?

自由主義経済と個人主義の旗振り手。 貨幣発行自由化論では中央銀行が貨幣を発行するのではなく民間に競争させることを唱えたり、あらゆる点で個人の自由が最大化される世の中(小さな政府、規制の最小化)を目指そうと思想を構築していったことが特徴の経済思想です。冷戦終結直後に亡くなっていますので、インターネットが登場する前の経済学者ではありますが、ニューラルネット的な考え方を取り入れた「感覚秩序」のような著作があったり、インターネット(情報伝達の基盤) + ブロックチェーン(信用の基盤)により個人の自由の範囲がさらに拡大するであろう社会を予見するような思想を展開したりなど(要出典)した経済学者です。

ボランティアの技術者たちがつくったインターネットが、1990年代以降あっという間に世界に広がり、サイバースペースにグローバルな「自生的秩序」ができた。これは計画経済に対する市場経済の勝利と似た出来事だった。それは「不完全な知識にもとづいて生まれ、つねに進化を続ける秩序が、あらゆる合理的な計画をしのぐ」というハイエクの予言を証明したのである。

「不完全な知識にもとづいて生まれ、つねに進化を続ける秩序が、あらゆる合理的な計画をしのぐ」

良い学術的パンチラインですね。ハイエクの言うところの共時的知識や通時的知識が進化していくために競争は必ず社会に必要であるし、「良い競争」を担保することさえできれば政府は最小限の存在で良い。もちろん、こういう考え方には批判がつきものですし、20世紀末期と21世紀初頭で批判され議論されつくされてきた感はある。 新自由主義に対する批判は繰り返され、その中心的思想家としてハイエクは批判されてきた。 そんな中で、ネットワーク的なインフラが整備された知識社会の未来を予見した思想家として最近は再度注目が集まっている(らしい)

参考リンク

synodos.jp 5分でわかるフリードリヒ・ハイエクの「貨幣発行自由化論」| わかりやすく要約 | クリプトピックス 仮想通貨と経済を解剖するブログ
1337夜『市場・知識・自由』フリードリヒ・ハイエク|松岡正剛の千夜千冊
ikedanobuo.livedoor.biz ameblo.jp

気になったところなど

少し雑なメモ(経済の本をまとめるの難しいね)

用語

自生的秩序 =人間行為の結果ではあるが、人間的設計の結果ではなく、歴史的過程を経る中で意図せず発生したシステム

自生的秩序の中には歴史的な過程を経て残ってきたルールが蓄積されており、人びとはそうしたルールに従うことによって行動の不確実性を減じ、行動についての将来の指針を得ることで生まれながらの無知に対処している。ルールにしたがう行動をとるためには、人々が自由な状態、すなわち強制から免れている必要がある

自由に関して

自由を大別すると二通りの自由が存在する「積極的自由」と「消極的自由」だ。積極的自由とはある集団が何かをしようとする自由であり、消極的自由とは能動的に何かをしようはしない、行動の前提として存在している自由のことである。後者のほうがより状態に近そうだ。ハイエクにおける自由とは、誰もが他人の恣意的な意志の強制に服していない状態、他人の恣意的な意志により知識の利用を妨げられない状態である。なぜこの自由が大切だとハイエクが主張するかというと、個人は生まれながらに無知であり、個人も知識は不完全である。理性の力の限界に基づいた個人が根幹に想定されているからである。人間は部分的に理性に導かれ、個人の理性は極めて弱く、非合理的に振る舞う。個人の知識が集積し、集団の中で明示的もしくは暗黙的に共有されたものはある種の集団の知識となり、集団は暗黙的な知識を明示的に伝達しなくとも学べるように市場秩序などのルールを形成していく。ルールは時間を減るごとに競争にさらされ、淘汰され、適したものが残って洗練されていく(進歩主義に則るならば)集団の中の個人はルールに従うことで「うまくやる」方法を学習していく。卑近な例でいうと、中身を全く知らないが何かしらのサービスを利用し、生活上の便益を得る。などがそれに該当する。ルールの洗練により社会の知識は進化していくから、個人が不必要に制約を課されてルールに従う行動を制限されると、競争に悪影響がでうる、それは結果として社会の進歩を遅らせる。それゆえ、知識の利用に関する自由が前提となる社会が必要である。雑な理解ではこんな自由論だ。

未来社会、目指すべき社会に関して

「偉大な社会」であり「開かれた社会」に最終的には到達する。そこでは、人々は市場活動を通じて知識を伝達し、獲得し、お互いに協力していることを知らずに生活している。未来社会では、非人格的なルールが存在しており、すべての人は自分の知識を自分のために行使することが許されている。

透明性を担保した非人格的なルールの執行がプログラムによって行われる可能性は大いにあると思っていて、ハイエク的な自由な未来像はあり得るのではないかとふと思った。