アゲインスト・リテラシー ─グラフィティ文化論 (4/200)
友人の家の本棚に置かれていて面白そうだなと思ったので図書館で予約をして(今年は図書館を使い倒す所存である)読んだ本。 美術批評とかその辺の読み方がわからないところもあり、流し読み気味になってしまった部分もあったが、総じて知的興奮を掻き立てられる本だった。 世の中には色々なジャンルの本があり、色々な読み方を求められるので、それこそ文脈的リテラシーが要求される。リテラシーのない自分は自分が理解しているお茶世界の文脈を利用して テキストを読み進めようと試みた。

アゲインスト・リテラシー ─グラフィティ文化論 Against Literacy: On Graffiti Culture
- 作者: 大山エンリコイサム
- 出版社/メーカー: LIXIL出版
- 発売日: 2015/01/26
- メディア: 単行本
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いとうせいこう(作家・クリエーター)推薦! 「これはグラフィティ批評、ストリート・アート批評の決定打。いきなり前人未到! 」 本書は美術家・大山エンリコイサム初の単著であり、近年発表したグラフィティ文化やストリート・アートに関する論考を大幅に加筆し、書き下ろし原稿を加えた、日本初の本格的なグラフィティ文化論である。 第1章では、バンクシー、ホセ・パルラ、ラメルジーほか8人の作家を個別に論じる。 第2章では、20世紀初頭のアメリカからニューヨークを舞台に「落書き」の系譜を探り、100年の歴史のなかでグラフィティ文化を文脈化する。 第3章では、舞台を日本に移し、2章で示したグラフィティ文化論の知見から現代日本の諸相を考察する。 第4章では、やはり本書前半の議論を参照しつつ、1960年代ニューヨークの美術批評が取り組んだ問題を拡張的に読解し、著者自身の制作についても解説がなされる。 本書は、グラフィティ文化の入門書、批評の書であり、美術家である著者のステートメントでもある。グラフィティ文化と現代美術の接点から導出される「文脈的なリテラシー(フリード)」「感性的なリテラシー(ソンタグ)」というキーワードを手がかりに、 さまざまな文脈やリテラシーによって複雑に編成された現代の文化状況のなかで、硬直する思考に抵抗し、しなやかな感性を発揮するためのガイド。
目次
- プロローグ 004
- ターミノロジー 007
- I 作家論
- バンクシーズ・リテラシー──監視の視線から見晴らしのよい視野へ 010
- BNE──水の透明なリテラシー 028
- レター・レイサーズ──ラメルジーと武装文字の空気力学 038
- 絵画とスピード違反──サイ・トゥオンブリとホセ・パルラ 048
- 誘拐と競売──ゼウスと有名性について 066
- スウーンとストリート・アートの「新しいはじまり」 073
- バリー・マッギーの「界面」 082
- Obey Me──横断と支配の論理 092
- II 都市と落書きの文化史
- [I]前史(一八六二 ─ 一九六七) 098
- [II]グラフィティとプロテストの落書き 120
- [III]地下鉄の時代とそれ以降 143
- III 現代日本との接点
- スタイル化する シミュラークル―グラフィティ文化とオタク文化 164
- 日本の視覚文化とライヴ・ペインティング的なもの 179
- 匿名性の遠心力―震災から考える 192
- IV 美術史に照らして
- アゲインスト・リテラシー 206
- エピローグ 242
- 参考文献 256
各章気になった章
作家論 : バンクシーズ・リテラシー──監視の視線から見晴らしのよい視野へ
グラフィティやストリートアートを読み解いていくために必要な体系知を導入しながら、バンクシーについて語る。 元来グラフィティには、タグを拡散したい、名前を拡散したいという欲求と、発見されれば当局により拘束されるため「現れ」ては行けないという二重性が元々存在する。 元々「見られる」ことの二重性がせめぎ合っていたストリートアートが、環境管理型のテクノロジーの進歩とともに常に見られざるを得ないという一元性と対峙する必要が出てきた時に、 バンクシーはそれを見られざることを得ないことを一回引き受けることで二重性を回復するという知的トリックを利用している。 視線を巡るバンクシーの戦略は巧妙であり、壁を乗り越え越境していくこと、ある視線で知覚可能な体系から別の体系へとリテラシーを越境していく意図が垣間見える。
作家論 : 誘拐と競売──ゼウスと有名性について
有名性に関する論考が興味深かった。モデルが肉体とそのイメージに纏う匿名の多数の他者の欲望を、モデルのイメージを誘拐することで連れ去ろうとする試み。 インターネットが普及し、プロシューマー的なカルチャーが広がると共に、「有名人」というのが、固有の対象へ感情移入(有名なアーティストやモデル、俳優になりたいと憧れること)の比重が減り、データベース的に検索すべき 対象=有名性の総体としての役割、名前をみんなが知っているかどうかというレファレンスとして役割の比重が大きくなっていくと考えられるし、現に人の認識はそう変化していっているように感じる。
II 都市と落書きの文化史
都市論と絡めながらストリートカルチャーを紐解いていくのが良かった。署名の形式の変更、現実に即した意味を持つ名前から音のかっこよさや視覚的かっこよさに由来する名前への変化。 低密度な「空っぽの記号」の併存からスペースの現象に伴うオルターエゴの干渉、ゴーイングオーバー。
アゲインスト・リテラシー
文脈的リテラシーと感情的リテラシーの対比に伴う、「形式」と「様式」に関する論考が非常に面白かった。
所感: 茶の湯的文脈を持ち込みながら
お茶の文脈で捉えると、千利休の残したものが(あれは「芸術」でなく「道」なので、芸術の言葉で語ることは本来できないのだが)形式的であるのか様式的であるのかはもう少し考えてみようと思った。唐物や天目茶碗などを見せる場としての儀礼的茶から、人間中心の茶へと価値観を転倒させたこと、そのためにそれまでの美的感覚の基になっていた「格式」を一部崩したりもしたこと。それに付随する道具立てとして、作家性を配した真塗のなつめや黒楽茶碗、素焼き(絵のない)陶器など、使用する道具を形式的なものに変えていくことで茶会に関係する人間に焦点をあて、道具の茶から人間の茶への転換を試みた試み全体、そして道具立ては「様式」的である。重層的な形式化により利休的様式が立ち現れているように思う。現在の茶の湯は利休的なものは時間の流れとともに薄れてきているし、利休を理解するための文脈(文脈的リテラシー)も我々の中には乏しい、文脈的リテラシーを獲得するには座学的稽古が必要になると思うが、時間がかかる。かといって感情的に繰り返し繰り返し利休の茶を体験できるかと言われると、道具立てが難しく、少しのズレが生じただけで、あまりにも重層的な形式の上に塗り重ねられた形式=空虚な道具立てになってしまうだろう。 とはいえ、何かしらの努力をしなければ追体験は不可能なので。利休的な茶をやってみようと思うのである。
話はかなり変わるが、都市に生活する人の重心が、物理的な都市から架空的な都市=バーチャル空間へ移動すると共に、これからストリートアート的なものはどう変化していくのだろう。 TikTokやinstagramが、ある意味我々にとってのストリートなのだから。