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MasashiSalvador(在日東京人) / 茶道 / 音楽/ 映画/ 雑記

中島晴矢の個展「ペネローペの境界」を見て

中島晴矢の個展、ペネローペの境界、タイトルのメタファーを理解するのには深い教養が必要であるようだった。 ペネローペはオデュッセウスの妻、夫の留守中に108人もの求婚者が押し寄せるが、彼女は変装等を駆使して貞淑を貫く。彼女は求婚者に対して、自分が織っている織物(死体を包むための織物)が織り上がった時、求婚者のうちから1人を選ぶと宣言する。 ペネローペは昼織った織物を夜になると解くことを繰り返していた。永遠に織り上がらないようにと。絶えまなく繰り返されるが、永遠に終わらないことを望まれているもののメタファーとしての織物。神話では彼女の企みは3年で露見してしまい。彼女は結局の所、求婚者から1人を選ばなければならないことになるが、そこへ夫であるオデュッセウスが帰還する。

当日作品を見ただけではメタファーを理解するのが困難だったが、境界に関する彼の考え方を作品に見ることができた。 その作品とは、「MAPPA」を下敷きにした国旗のシリーズ、融解した各国国旗が描かれた作品である。 一目見るだけで、融解し、絶えず変化する曖昧な境界を強く意識させられる作品だった。日本と中国、アメリカとイラン、フランスとパキスタンの国旗が混ざり合った小作品と、各国国旗が入り乱れて溶け合って描かれた大作品が展示されていた。 底に描かれた融解した国旗は、旗としての機能を失い、ただの色彩と成り果てる。 青は自由、白は平等、赤は博愛、神聖さを司る緑、太陽の赤、共産主義の赤、星々が表す独立性、陰陽、太極、各々の色に込められた意味は、色を知覚する観察者の立ち位置によって大きく変化する。

色彩の違いは境界線を生み出す。意図せずとも、知覚の本質的な機能として、境界は明確に意識される。私達の知覚が色彩の境界線を超えると、その背後では色彩の意味合いが転換されている。今私は赤の中にいる。私は日の丸の赤の下にいるのか、五星紅旗の赤のもとにいるのか。旗としての意味合いを意識する度に、自分の立ち位置がぐらつくのを感じる。

観察をする私は、一体全体この作品の中のどこに立っているのだろうか。どこを泳いでいるのか。私の周りの色彩の意味合いは、どの意味合いなのだろうか。きっとそれは私が決めなければいけない。強い明確な意志はなくてもよい、ただだそこに存在する以上は、どこかで色彩の意味を決めなければいけない。 意味合いを曖昧なままにすることは思考停止になる。ある意味で生を放棄することになるのだ。

作品に描かれているのは、絶え間なく変化する状態の一時のスナップショットであるから、実際は境界は常に揺らめいている。いまこの瞬間、私はどの境界の内側にいるのだろうか。私は赤に囲まれている。私が生まれ育った日本の、国旗である日の丸の赤だ、しかし、私が知らない、私が意識していないだけで、遠目にみればそれは星条旗の赤い部分であるかもしれない。日の丸だと思って赤と白を眺めていたら、実はそれは星条旗の一部分かもしれないのだ。赤い部分を遠く遠く歩いて行くと、いつの間にか黄色い部分が生じていて、気づいたらそこは五星紅旗かもしれないのだ。今この瞬間にどの境界の中にいるかを知覚することはできないから、意味を決めようともがいても結局はどこにいるか明確に定まるわけではないのだ。色合いの意味を定めようとすると、再現のない誤りにつながってしまうのだ。

ただ社畜として暮らしていると忘れがちであるが、 そういうことを強く意識させられる。嫌でも意識させられる。

「現代は、無数のレヴェルで境界線が引かれ、ほどかれ、また引き直され……という永久運動にさらされています。その上で、様々に偏在する「ペネローペの境界」を、多元的に提示する——それが本個展のテーマです。」

私達が生まれたのと同じ時期に、国旗が整然と並べられている(かのように)、もしくはイデオロギーごとに色が明確に定まっている(かのように)地図はガラガラと崩壊した。こういう書き方が陳腐であることは認識しつつも、思想や成長モデルに縛られた地図はドロドロに溶けてしまった。溶け始めは笑ってみていられたけれど,テクノロジーの進歩によって、融解が実際の生に影響し始めた時に、切実なものとして境界線のゆらめきが顕在化した。 社会の中に生きること=知覚することは、個々人に絶え間ない境界線の引き直しを要求する。 境界線の引き直しには大きなエネルギーが必要だ。私達はそれほど強くないから、そういった引き直しを諦めたくなる、思考停止をしがちになる。薄くとも何かの思想に寄りかかりながら、時には他人の話に寄りかかりながら、変化する境界を自覚しつつも、偽物の仮初めの硬い境界をこしらえて、その中で生きていこうとする。自分の現在位置を確立するために必要な操作だ。そうだ、自分の周りは鮮やかな赤なのだ、そうさ、自分の周りは誇りに満ち溢れているのだ、と。 時たま、それが仮初めのものであることを自覚させられる。私達の知覚に揺さぶりをかける何か、例えば今回展示されていたような美術作品、影響力の大きな発言、巨大な事件、時折、私達はそういう目覚めの契機に遭遇する。 その度に、私達はグロテスクに変化する境界線、活き活きと変化する境界を目にすることになる。そしてそれを捉え直す。捉え直された境界はまた融解し、認識の彼方へと消える。局所的な色は分かるが、大局的な位置は判らない。常に不安だ。

テクノロジーによる情報伝達速度の刷新により、大局的な整然とした地図の中に生きられる時代はおそらくもう二度と訪れない。私達が荒廃を望まない限りは、文明荒廃後の世界まで、二度と。この時代を生きていくために、絶え間ない境界の変化に対して、私達は仮初めの、偽りの境界を築いては壊し、築いては壊しを繰り返さなければならない。そして自分の現在位置の確認のため、終わりない/絶え間ない変化に仮初めの境界を作り出すための文脈と設定を求めて生きていくしかない。 それへの欲求を封じ込めることは、現在位置を捨てること、ある意味で生を放棄することにつながるのだから。

融解した国旗を描くのは非常にシンボリックだった。実世界ではありとあらゆる箇所で、こういう融解が起こっているのだ。楽しみながら生きていくしかないのだ。

3,4回中島晴矢の個展を見させてもらって、「同級生の中島晴矢の個展を見に行く」という行為が「中島晴矢の個展を見に行く」行為に変わった。 これからも彼の作品を楽しみに生きていきたい。

六本木で日々安く昼飯を済ますための方法-かけだし編(1)-

六本木は色々と高い

プログラマー@倒壊すべきヒカリエからしがないスタートアッパー@六本木に転身したわけですが、いかんせん飯が高い...なんとも言えないくらい高い。昼でも600円から〜みたいな相場感はいまのしがない身分にはしんどいですね。かといって毎日カップラーメンってのも大分アレです。

食事の楽しみを失ってしまったら人間としてまともに生存できない
⇔
もそもそカロリーを貪るだけの動物に成り下がる

ということで、動物化しないためにも食事に楽しさを見出すために奮闘中です。 (*)単純に引っ越しが6月に迫っているのにオカネナイ状態で節約を強いられているというのもあります。

方法論(1) 安い店を探す

チェーン店

  • すき家 ヒルズ側からはちと遠い
  • 松屋 ミッドタウン脇=ヒルズ側からはちと遠い
  • 富士そば 六本木交差点側 ミニヒレカツ丼セット 550円はなかなかコスパが良い
  • サブウェイ(@六本木ヒルズ地下)  日替りセット500円+サブウェイクラブカードは割りとコスパ良さそう
  • sakura食堂(@六本木ヒルズ地下) 450円で小さめの弁当を売っているのを見かけた
  • ディキシー デリ おかずだけも頼める(らしいがまだトライしてない)

カレー屋めぐりは別途やっていますが、チェーン店に頼ると400~500円前後はかかってしまいそう

方法論(2) 白米を持参する

ファミリーマートだのローソンだのは潤沢にあるので白米を持参すれば割りと豪華な昼飯が食べられるのでは? ということでコンビニ惣菜に手を出すことに 今日買ったのはファミリーマートコレクション

www.family.co.jp

  • たけのこ煮
  • 豆とひじきのサラダ

をゲットしました。約260円 米を持参することでありとあらゆるものがおかずになる。

http://file.kli0420.blog.shinobi.jp/tachiagattekuru.jpg
まさにこんな感じですね。 コンビニ飯以外にも惣菜売り場がないかチェックしていこうと思います。

コスパ追求を楽しむための方法論

ダイエットの食事制限でもそうなんですが、これ以上は土下座しても食べることができないと考えると楽しく食事制限を続けることができる気がします。

例えば、雪山の登頂を目指していて、7日間である決まった量のものしか食べることができないとか 例えば、バックパッカー旅行中で食費を切り詰めないと帰るための交通費がなくなってしまうとか

追い込まれてるのを想像すると日々楽しくなりますね。

AirBnBとかで外国人泊めた時に、彼らに米を提供すればかなりコスパの良い(かつローカルフードにトライできる)食事を案内できるんじゃないかと思いました。3ドルで飯を済ませられるってなかなか良い。 ただし温かいご飯でなくて冷や飯なのが難点ですね。

今日は紙コップで食事するっていう原始人みたいなことをしていたので、適宜アウトドアグッズを使って美味しく惣菜が食べられるようにトライしていきたいです。

ディスコファンクだったりポップだったり、ヘッドホン耳に踊りたいのさ 2015のプレイリストその1

SoundCloudで音楽をDigすることも多くなってきた。
スネオヘアーが一曲一曲大事に聞いてあげてくださいね。と言っていたのを思い出しながら、
大量の音楽情報に流されないためにも、今年=2015年は定期的にプレイリストを作って自分の完成をまとめておこうと思っている。
とりあえず、今年を2週間生きてみて、良いなと思った音楽たちを思った音楽たち

1曲目におかせてもらったDino SoccioのD'AngeloのREMIXはかなり刺りました。他の楽曲もなかなかに素晴らしかったので最近は彼の曲ばかり聞いています。
French Kiwi Juiceは前から知っていたんですが、フランス人なりのおしゃれ感というか、Alice Russelの曲をここまでメロウでクラブ向けの曲に変えてしまうんだ..と関心。原曲もかなりいいですが、こういうREMIXはREMIX好きのテンションをバク上げしてくれます。

7曲目くらいから日本の(Maltine界隈とかの)方々を入れています。
ディスコファンク/ソウルフルでメロウな世界と日本のネットレーベル界隈(歌もの)の間に挟ませてもらったのが
FirewoodIsland、Celtic Viking を自称し、Norway出身でロンドンで活躍中のバンドです。

中盤少しパキパキした後に、またdopeでソウルフルな世界に帰りたいと思ってEric LauやTom Mischを入れています。Tom Mischはロンドンの19才、NEUSもパリで活躍中の同い年MatomaはNorwayの23才...なんだか音楽で活躍する世代が同世代や年下になっていくと自分がおっさんになっている感じがしますね。
SoundCloudを巡回しているとNorwayの方を結構見かけるのですが、彼らは普段どこを拠点に活動しているんですかね。ヨーロッパだからベルリンとかロンドンとかにはカジュアルにDJしにいったりするんでしょうか。

ちなみに毛色が違うのでプレイリストに入れませんでしたが、日本語ラップではdizzleanさんをヘビーに聴き込もうかなと思っています。

死んでも、頑張らない。リリックが素晴らしい。

今更かよノームコアについて

ぱっと見だと穿った感じになってしまう

 2014年にチラチラと目にしたノームコアという単語の意味合いについて、いまさらながらまとめてみた。
ウェブに出回っている記事にのタイトルをチラチラ見たりすると、なんだボロボロの服を来て侘び寂びだよぉ〜って言うのとおなじ感覚なのかな?と誤解してしまっていた。穿った見方をすると、金持ちとかイケメンとか美女が、いわゆる「普通の人」が着る服を来て面白がっている天上人の遊びの一種かな(そして僕らには無縁である)
 簡単に言うと、見た目を差異化して個性を主張し、対立や孤立することよりも、あらゆるものに順応できる装いに身を包み、あらゆる集団に所属できるようにして自由を勝ち取ろうということらしい。
大事なのは、本質的には服がどうこうというよりは、内面をチューニングしようぜ!っていう流れだってことだ。

Individuality was once the path to personal freedom — a way to lead life on your own terms. But the terms keep getting more and more specific, making us more and more isolated. Normcore seeks the freedom that comes with non-exclusivity. It finds liberation in being nothing special, and realizes that adaptability leads to belonging. Normcore is a path to a more peaceful life.

(K-HOLEの資料より)

気持ち的には、大量情報社会への反動

 現代のファッションは差異化の極限として、いままでとこれからとで何が違うのか簡単には判らない状態に収束し、「違い」を主張することのコストがものすごく高くなっている。違いを主張するためにはロジックが必要である。誰彼と違うこと、誰彼と異なる個であることを声高に主張するためには、ある程度のロジックが必要である。そのロジックが弱ければ弱いほどアイデンティティはゆらぎ、集団の中での個としての存在感は希薄になっていく。差異を追求するのに必要なコストが高いということは、アイデンティティを確立するのに多大なコストが掛かるということだ。酷く矮小な例をとってみると、よく遊ぶ仲間内で「XXXはYYYだ」「EEEはFFFだ」といった主張をファッションで示すことが大変難しくなっている。被り=他人と差異がないことを警戒するとか、いちいち自分の所属集団が何であるかファッションで表明するために必要な労力が大きすぎて、クールであり続けるのはつかれることになってしまったし、いつしかそれがクールでなくなってしまったのだ。
 例えば、最新情報を追うためにRSSを逐一チェックしたり、クールな奴のtwitterFacebookを追いかけたり...疲れますよね。

「かのように装う」ことが不可能になった

 クールであることはクリエイティビティと強く結びついている。例えばラップが上手かったり、ギターが超絶技巧であったり、イケてるデザインができたり、スケートが鬼のように上手かったりといった具合だ。インターネットがこんなにまで普及する以前は、ファッションを利用することで、自分のところに創造性の高い人のイメージをコピーしてきて、自分にも高い創造性が備わっている「かのように装う」ことが可能だった。
実際に対面で会った時に見た目で判断されることの方が、インターネットを介して他人に判断されることよりもはるかに多かったから、自分につきまとうイメージをクールに保つこと=クールな装いに身を包み、「かのように装う」ことは非常に重要視された。
 しかし、インターネットと音楽/芸術創造のツールがこれだけ一般に普及した後で、ふと辺りを見回してみると、どうも「かのように装う」ことが無駄ではないかとみんな気付き始めた。なぜなら、高いクリエイティビティを持った人が普段どういうことをしているかが明らかになってしまったからだ。高い想像力を持った人は自分の作品や制作風景をYoutubeやらSoundCloudInstagramに投稿し、それがコミュニティの中で流通して、コミュニティのみんなが知ることとなる。すると、「あいつ普段パッとしない格好しているけど、こんなにすげえやつだったのか」とか「あいつ超絶ラップうまいのに…普段は意外と普通のカッコしてるよな」など、クリエイティブな人の実態が明らかになってきた。
それと対照的に、「あいつあのファッションなのに…」というふうに「かのように装って」いた人たちが実はあんまりイケてないことが明らかになってしまった。 
 結局、イケてる奴はイケてることやってることが明らかになってしまったから、わざわざ見た目を取り繕うのに金や時間を使うのが馬鹿らしくなり始めたのだ。バカらしくなった結果、見た目を取り繕うのはクールではなくなった。

順応/同化が理想

 イケてるの考え方が外面から内面へと向かっているから、わざわざ個を主張して孤立する必要がなくなった。外面で個を主張するメリットは、孤立以外の何物ももたらさなくなった。イケてる活動をしていれば、イケていると思われ、ファッションで所属を示さなくとも、同じような活動をしている人が集まってくる。
どんな人であれ、イケている人はイケているから、わざわざ対立するよりは「すげえ!」って認め合ったほうが自分も相手も幸せになる。同一性を受け入れることがクール、何者でもない自分を自覚することがクールと言うよりは、順応性の高いほうが幸せになれるよね。といったライフスタイルを表しているのがノームコアである。
順応性の高さを巷で言われているユニクロやら無印で買ってきた服で示すのは形式の1つであって、全てではない。

結局どういう服着るんだってばよ...

結局僕自信もよくわかっていないけれど、下記ブログの引用に少し納得感があったので掲載します。

面倒なことは抜きにして、ファッションとしてノームコアを実践するならば、多分いま別に汚れても良い服を引っ張り出してきて着ればいいわけです。そうすると、多分自分がいまいるところで、一番目立たない格好になると思います。ノームコアは広く普通を目指すというより、単に「普通」なだけなので、大学生アラフォーの男性では違いますし、大学生で所属サークル、大学などによって大きく異なると思います。そこで一番皆がしているような感じ。印象に残らない残らない感じ・これがポイントでしょう。

ノームコア:7億分の1を自覚するためのファッショントレンド - The 42 Of Spaghetti


服であえて主張しない、普段通りの格好をしているってことがポイントに思われる。

一方、意識としてノームコアを実践しようとすると、それ「で」よいの「で」の価値を高める荷印をやらないことになります。それは本物らしさの追求になり、単にシンプルだたりミニマル/定番であるだけで、例えばカッティンやパターンが凝っている、質がk高いなど、本物らしさを追求してしまうことになるわけです。そうではなくて、あくまで周りと溶けこむような、「いつもどういう服を着てるのかなんて気にもしてなかったよ」と言われる位のものにして、服を着ていること自体でなにか価値を生み出さないこと。これはマイナス価値でもダメです。

ノームコア:7億分の1を自覚するためのファッショントレンド - The 42 Of Spaghetti

本物っぽい見た目を追求しだすと本筋から外れるっていうんだから難しい。
とにかく、見た目の問題をどうこうするんでなくて、内面をチューニングしましょうってことなんですかね。

ノームコアは考え方だってことを理解せずに巷で騒がれているノームコアっぽい装いに見を包んでしまうと、
「あいつ内面も外面も普通の本当になんでもないやつになっちまったぜwwww」ってことになるんだろうか...

参考にしたブログなど


ノームコア:7億分の1を自覚するためのファッショントレンド - The 42 Of Spaghetti


“ノームコア”は単なる「全身ユニクロ」じゃない! ファッションのプロに聞いた“中身重視型トレンド”|ウートピ


“ノームコア”は単なる「全身ユニクロ」じゃない! ファッションのプロに聞いた“中身重視型トレンド”|ウートピ


2014年ファッションの裏トレンドは「トレンドの消失」 - 1ページ目 | Fashionsnap.com


「ノームコア」で行こう!気張った服はダサい | オリジナル | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

関連


女子大生みんな似すぎ!!Twitterで話題 - NAVER まとめ

量産型問題とはまた別の話

総選挙だったね/プレモダンダンディーたち

今日はみんなの大好きな総選挙だったようで。
昔は選挙に行かないやつは糞だと思っていたけれど、今はそんな気を吐く気力もない。
というか、自分のそんな気を吐く資格が無い。
忙しくて政治の情報などゲットできないし、ハテブやらgoogle newsやらで暗いニュースを見るたびにアブちゃんは早く死なないかな
などと夢想するだけだ。
住所に縛られた現在の選挙システムは明らかにおかしいと思う。ネットで投票したいなどと思いながらも、渋々家から遠い投票所へ向かう。
日本円が暴落しないかと思いながら、雀の涙のような給料をユーロに変換し、それでも
リフレ派が蔓延るアブ政権が存続するのは世の中のためにならないだろうななどと夢想する。

森達也さんがポリタスに書かれている記事には強く共感する。

【総選挙2014】もう投票しなくていい(森達也) |ポリタス 「総選挙」から考える日本の未来

首相官邸のウェブサイトからリンクできる教育改革国民会議の議事要旨には、「子供を厳しく飼いならす」との記述がある。「警察OBを学校に常駐させる」とか「団地やマンションには床の間を作らせる」「学校に畳の部屋を作る」などの項目も並んでいる。行政に対しては、「『ここで時代が変わった』『変わらないと日本が滅びる』というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う」との記述もある。

プレモダンダンディたちは、この国を最高の状態に持って行こうとしている。愛国!安全!統制のとれた世の中!、明治維新以降、モダンとポストモダンと戦ってきた知識人や文化人をあざ笑うかのように、
「お前たちはこれまで一度もモダンの果実を獲得したことはなかったんだよ。戦っていたはずの相手は居なかったんだよ。だからほら、ダダを捏ねずにプレモダンの美しい世界に帰ろう。そこにはほら、危ないものは何一つない、世界の真ん中で煌々と輝く陽のもとに戻ろう。それが君の幸せなんだ」
と語っている。

結局のところ、学級会を続けていたら、学級全体がジャイアンに乗っ取られてしまったという風だ。しかもそのジャイアンが、知的な層に支持されていればいいが、結局は彼を支配しているのは自分の弱さを、政治やら他国に向けることでしか解消できない「可哀想」な層だ。
愛国やら安全やらで、ピカピカに磨かれた言葉を振りかざして、自分が弱いことの原因を国の弱さになすりつける。国を弱くする要因である多様な意見に牙を向く。「可哀想」な層たちが彼らの描く「美しい国」の妄想をやめることもないだろうし、その内容が変質することもないだろう。
彼らは一様な意見に触れ続け、他のありとあらゆるものに牙を向いていく。
おそらく彼ら個人個人は特定の者に対して大きな怨恨を持つものではないだろう。
彼らの総体を生み出したのは、この国の空気感だ、この国の仕組みだ、この国がモダンの果実をゴミ箱に投げ入れてしまった結果だ。

それを生み出したのは、長きに渡りモダンに栄養を与えなかった我々なのだから。
こうなれば徹底的にプレモダンであることを自覚させて欲しい。
近代なんてなかった、ポストモダンはもちろん存在しなかった。

制度の不備や、物理的な国力の不備を、リソースが無限大である精神力でカバーするあの美しい国へ、
僕らを導いてくれ、プレモダンダンディーたち。

政治が変わっても、決して変わらないものがある。
それは僕らが受け継いできた失われゆく伝統だ。
プレモダンダンディの代表、アブちゃんがインドの偉い人と茶道を楽しんだ時の画像を見てみよう。
https://pbs.twimg.com/media/Bwg9-F3CEAALVs6.jpg
美しい国」の文化の一つとして、茶道をうまく利用したつもりだったんだろうけど、
手の組み方から含めて、汚ないったらありゃしない。
本当に私達の文化を愛しているならば、(そもそも代表的文化である)茶道の客の作法ぐらい知っていると思うのだが。
プレモダンの頃には、茶道はなかったらしい。最高だね。

プレモダンダンディたちは、私達の伝統に興味が無いようだから、
逆にこれを、私達だけのものとして育てていくことができる。
彼らは私達の文化のなんであるかを知らない、詳しく知らない、だから多分、自由に発展しても気づかないだろう。

そういうところにしか、希望はないんですかね。
憲法が改正されたら「可哀想な」層には真っ先に戦争に行ってもらおう。彼らの大好きな魚釣島や、トンヘで戦ってもらおう。
職も手に入るし、給料もいいだろう、国を守るかっこいい奴らならモテるだろう、結婚もできる。

お幸せに。

ドラえもん STAND BY ME

ドラえもん STAND BY MEを見た。
3Dならではの表現があったことはだいぶ肯定できるけれど、これで泣くオトナはどうなんだと正直思ってしまった。
原作の方が自分は好きだ。マンガとアニメと劇場版をひっくるめたドラえもんというコンテキストの中で
「帰ってきたドラえもん」だの「のび太の結婚前夜」だのの作品があって初めて感動できるわけで、
今回のドラえもんSTAND BY MEはそういうコンテキストを全部短い尺の中に入れこもうとしすぎたせいで非常にいびつな作人になっている気がするのだ。それに、オトナに対するお涙ちょうだい的な王道ストーリーに乗せてしまったことで、
野比のび太のだめ人間っぷりが浮き彫りになってしまって非常に辛い。

ダメ人間も人の幸せを願える(美しい)心さえ持っていれば幸せになれる。現に野比のび太は、失敗したり泣き叫んだりしたりしながらも
美人の奥さんと結婚して幸せそうに生きている(し、行きていける)ではないか

そういう「ダメなアナタでも幸せに生きることができるんだよ」と言ったメッセージが強く押し出されているように思えて、そこが自分には刺さらなかった。

Facebookを見るとなんだかコレをみて泣いている人が結構いるようで不思議である。

そもそも原作の面白さって何だったんだろうなと考えてしまう。

結構泣けるなあと思ったのは、のび太が雪山にしずかちゃんを助けに来るクルマがTOYOTA車であったことと、
未来の街が街中TOYOTA車だらけになっていたことである(Panasonicの看板がそこかしこにあるのもまあソレはソレで)

継続こそが才能なのか

社2病を発病したかのように4月中旬からのやる気のなさが目立つ。
やる気のないときはインプットもアウトプットも少なくなって。
ただ食って寝てを繰り返すケモノのように成り果てるのだ。

日々仕事にすり減らされると本を読む時間もなくて、
いざ本を読もうと思ってもどうしても他のことに気を取られて読み出せず。
残りページ数を気にしないで読んでいる本がない。

この状態は非常に危機的である。

とりあえず最近の日課としては、ディスクガイドをみながらYoutubeを探索し、80sのファンクを聞きあさる。
1週間くらい読み終えられていないが、同時に植村直己の北極圏探検紀を呼んでいる。
片や大都会を彷彿させる、アーバン黎明期のファンク、
片や装備も不十分な中で極寒の地を旅する探検家
コントラストで自分を揺さぶりながら、どうしようもない日常を耐え抜こうとしているのか。


ここでないどこかへ行くことは多分可能だけれど、まだ先の話だ。
今は雌伏のときと信じて。