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MasashiSalvador(在日東京人) / 茶道 / 音楽/ 映画/ 雑記

アゲインスト・リテラシー ─グラフィティ文化論 (4/200)

友人の家の本棚に置かれていて面白そうだなと思ったので図書館で予約をして(今年は図書館を使い倒す所存である)読んだ本。 美術批評とかその辺の読み方がわからないところもあり、流し読み気味になってしまった部分もあったが、総じて知的興奮を掻き立てられる本だった。 世の中には色々なジャンルの本があり、色々な読み方を求められるので、それこそ文脈的リテラシーが要求される。リテラシーのない自分は自分が理解しているお茶世界の文脈を利用して テキストを読み進めようと試みた。

アゲインスト・リテラシー ─グラフィティ文化論 Against Literacy: On Graffiti Culture

アゲインスト・リテラシー ─グラフィティ文化論 Against Literacy: On Graffiti Culture

いとうせいこう(作家・クリエーター)推薦! 「これはグラフィティ批評、ストリート・アート批評の決定打。いきなり前人未到! 」 本書は美術家・大山エンリコイサム初の単著であり、近年発表したグラフィティ文化やストリート・アートに関する論考を大幅に加筆し、書き下ろし原稿を加えた、日本初の本格的なグラフィティ文化論である。 第1章では、バンクシー、ホセ・パルラ、ラメルジーほか8人の作家を個別に論じる。 第2章では、20世紀初頭のアメリカからニューヨークを舞台に「落書き」の系譜を探り、100年の歴史のなかでグラフィティ文化を文脈化する。 第3章では、舞台を日本に移し、2章で示したグラフィティ文化論の知見から現代日本の諸相を考察する。 第4章では、やはり本書前半の議論を参照しつつ、1960年代ニューヨークの美術批評が取り組んだ問題を拡張的に読解し、著者自身の制作についても解説がなされる。 本書は、グラフィティ文化の入門書、批評の書であり、美術家である著者のステートメントでもある。グラフィティ文化と現代美術の接点から導出される「文脈的なリテラシー(フリード)」「感性的なリテラシー(ソンタグ)」というキーワードを手がかりに、 さまざまな文脈やリテラシーによって複雑に編成された現代の文化状況のなかで、硬直する思考に抵抗し、しなやかな感性を発揮するためのガイド。

目次

  • プロローグ 004
  • ターミノロジー 007
  • I 作家論
  • バンクシーズ・リテラシー──監視の視線から見晴らしのよい視野へ 010
  • BNE──水の透明なリテラシー 028
  • レター・レイサーズ──ラメルジー武装文字の空気力学 038
  • 絵画とスピード違反──サイ・トゥオンブリとホセ・パルラ 048
  • 誘拐と競売──ゼウスと有名性について 066
  • スウーンとストリート・アートの「新しいはじまり」 073
  • バリー・マッギーの「界面」 082
  • Obey Me──横断と支配の論理 092
  • II 都市と落書きの文化史
  • [I]前史(一八六二 ─ 一九六七) 098
  • [II]グラフィティとプロテストの落書き 120
  • [III]地下鉄の時代とそれ以降 143
  • III 現代日本との接点
  • スタイル化する シミュラークル―グラフィティ文化とオタク文化 164
  • 日本の視覚文化とライヴ・ペインティング的なもの 179
  • 匿名性の遠心力―震災から考える 192
  • IV 美術史に照らして
  • アゲインスト・リテラシー 206
  • エピローグ 242
  • 参考文献 256

各章気になった章

作家論 : バンクシーズ・リテラシー──監視の視線から見晴らしのよい視野へ

グラフィティやストリートアートを読み解いていくために必要な体系知を導入しながら、バンクシーについて語る。 元来グラフィティには、タグを拡散したい、名前を拡散したいという欲求と、発見されれば当局により拘束されるため「現れ」ては行けないという二重性が元々存在する。 元々「見られる」ことの二重性がせめぎ合っていたストリートアートが、環境管理型のテクノロジーの進歩とともに常に見られざるを得ないという一元性と対峙する必要が出てきた時に、 バンクシーはそれを見られざることを得ないことを一回引き受けることで二重性を回復するという知的トリックを利用している。 視線を巡るバンクシーの戦略は巧妙であり、壁を乗り越え越境していくこと、ある視線で知覚可能な体系から別の体系へとリテラシーを越境していく意図が垣間見える。

作家論 : 誘拐と競売──ゼウスと有名性について

有名性に関する論考が興味深かった。モデルが肉体とそのイメージに纏う匿名の多数の他者の欲望を、モデルのイメージを誘拐することで連れ去ろうとする試み。 インターネットが普及し、プロシューマー的なカルチャーが広がると共に、「有名人」というのが、固有の対象へ感情移入(有名なアーティストやモデル、俳優になりたいと憧れること)の比重が減り、データベース的に検索すべき 対象=有名性の総体としての役割、名前をみんなが知っているかどうかというレファレンスとして役割の比重が大きくなっていくと考えられるし、現に人の認識はそう変化していっているように感じる。

II 都市と落書きの文化史

都市論と絡めながらストリートカルチャーを紐解いていくのが良かった。署名の形式の変更、現実に即した意味を持つ名前から音のかっこよさや視覚的かっこよさに由来する名前への変化。 低密度な「空っぽの記号」の併存からスペースの現象に伴うオルターエゴの干渉、ゴーイングオーバー。

アゲインスト・リテラシー

文脈的リテラシーと感情的リテラシーの対比に伴う、「形式」と「様式」に関する論考が非常に面白かった。

所感: 茶の湯的文脈を持ち込みながら

お茶の文脈で捉えると、千利休の残したものが(あれは「芸術」でなく「道」なので、芸術の言葉で語ることは本来できないのだが)形式的であるのか様式的であるのかはもう少し考えてみようと思った。唐物や天目茶碗などを見せる場としての儀礼的茶から、人間中心の茶へと価値観を転倒させたこと、そのためにそれまでの美的感覚の基になっていた「格式」を一部崩したりもしたこと。それに付随する道具立てとして、作家性を配した真塗のなつめや黒楽茶碗、素焼き(絵のない)陶器など、使用する道具を形式的なものに変えていくことで茶会に関係する人間に焦点をあて、道具の茶から人間の茶への転換を試みた試み全体、そして道具立ては「様式」的である。重層的な形式化により利休的様式が立ち現れているように思う。現在の茶の湯は利休的なものは時間の流れとともに薄れてきているし、利休を理解するための文脈(文脈的リテラシー)も我々の中には乏しい、文脈的リテラシーを獲得するには座学的稽古が必要になると思うが、時間がかかる。かといって感情的に繰り返し繰り返し利休の茶を体験できるかと言われると、道具立てが難しく、少しのズレが生じただけで、あまりにも重層的な形式の上に塗り重ねられた形式=空虚な道具立てになってしまうだろう。 とはいえ、何かしらの努力をしなければ追体験は不可能なので。利休的な茶をやってみようと思うのである。

話はかなり変わるが、都市に生活する人の重心が、物理的な都市から架空的な都市=バーチャル空間へ移動すると共に、これからストリートアート的なものはどう変化していくのだろう。 TikTokinstagramが、ある意味我々にとってのストリートなのだから。

裏千家今日庵歴代 利休宗易 (3/200) @ 2019

読むスピードより読書記録を書くスピードの方がはるかに遅くなってしまっている。 買う速度 > 読む速度 > 記録を書く速度の順になっている。実行難易度の低い順でやってますね。金を払って読んだ気になる弱さ。

読書の動機

2019年はお茶の精神面であるとか歴史的側面への理解を深めようと思い立ったため、流派を問わず茶道という文化の始祖である千利休の実像に近付こうと思い立った。 利休について書かれた南方録は偽書であると言われていたり、生前に手がけたと言われる茶室が待庵しか残っていなかったり、現在の茶道で使う道具の取り合わせは実は茶道が継承される過程で別の家元によって発明されたものであったりと、現在の茶道のスタイルから直接利休の思考を読み解くことは難しいから(一度整理された資料を読んでみようという心がけである*1

裏千家今日庵歴代〈第1巻〉利休宗易

裏千家今日庵歴代〈第1巻〉利休宗易

●侘び茶を大成した茶禅一味の人、初祖利休● 千利休から十四代家元・無限斎(淡々斎)まで、裏千家今日庵の歴代を一人一冊に編集した、裏千家茶道の道統を知るシリーズ。 第一巻では、現在、三千家に受け継がれている千家茶道を大成した初祖利休宗易を取り上げます。 その生涯を茶人や大徳寺僧との交流を中心に解説し、さらに遺芳や好み道具、茶室、消息などからその美意識や茶境を偲びます。 さらに、年表や利休周辺の系図も掲載するなど、利休宗易を多角的に紹介する一冊。

目次

  • 利休とその時代 天下統一と茶の湯の隆盛……小和田哲男
  • カラー 利休の遺芳……茶道資料館
  • 利休の生涯とその道統……筒井紘一
  • 『南方録』にみる露地の思想―紹鴎と利休の節義について―……戸田勝久
  • カラー 利休の好み物……茶道資料館
  • 利休の茶道具―新たな茶道具の創造―……谷端昭夫
  • 利休居士をしのぶ 利休好 菊桐絵大棗 盛阿弥作……永井宗圭
  • 利休居士をしのぶ 利休筆 大納言宛 茶碗の文……鈴木宗幹
  • 利休の茶会記と茶の湯の変容……谷晃
  • 利休の茶室―茶の湯空間の草体化―……日向進
  • 利休の消息―自筆・右筆・写しの書―……増田孝
  • 利休と大徳寺の禅……泉田宗健
  • 高山右近と利休とキリシタン……五野井隆史
  • 利休と武将―茶人としての足跡―……竹本千鶴
  • 利休宗易年譜……今日庵文庫
  • 利休周辺系図裏千家今日庵系図

各章(気になった章)

利休の生涯とその道統

利休の生涯を史料を元に読み解きながら、何歳の頃にどういう趣向でお茶をしたか、交友関係はどうだったか等を紐解いていく章。 出自は商業都市堺の魚屋、千与四郎。10年行かないくらい茶道をやっている癖に、僕の中での茶道のイメージは「花の慶次」に現れる巨漢なので(イメージを「へうげもの」で上書きすることはできなかった。それだけ花の慶次の利休が強いキャラクターなのである)「与四郎殿〜」などと作中で呼ばれているアレである。 23歳の頃から「宗易」という法諱名(坊さんの名前?)で現れ、茶会の記録「松屋会記」に残っている。記録が残っている中では宗易としての初めの茶会であるそう。客は2名、珠光茶碗を用い、珠光の弟子である大富善幸が所持していた青磁の香炉を床に飾り、中立ちの際に香を焚いたそう。お茶会自体は、一汁三菜の懐石(正式な茶道では食事と酒が出る。空きっ腹にお茶を飲むとしんどいのでお茶を飲むために腹を満たすのである)→菓子三種→中立(飯を食った後は一旦お茶室から出る)→香を焚いて香を聞いてもらう→お茶という流れである。香りを焚くというのがポイントで、この時代の茶道ではお客さんが一旦外に出て再度お茶室に入ってからあんまり間がなく、お湯が湧くまでの間数寄雑談をして時間を稼がないと行けなかったらしいが、利休は床の間に香炉を据えて(普通は据えなかったらしい)お客さんに香りを聞いてもらうことで間をうまくとったらしい。今よりも形式が重視され、年齢による上下関係も厳しいであろう時代に二十代の若者がこうした「普通と違う」趣向を見せるのは勇気のいることだが、利休はそれを実行してお客さんを(いい意味で)驚かせている。 香炉で香を実際に焚く趣向は少々「書院」っぽすぎたようで、利休は香炉だけを飾るようになる。また、花器に関しても、花を入れずに水だけを張って飾ったりもした。「香りは想像してください」「花が入れられている様子を心の中で想像してください」という趣向らしい。若干中二病感がある点がゾワゾワするポイントであるが、同時に利休が当時はあまり床の間に掛けなかった墨跡(禅僧が書いたもの)をかけていることからも、彼が禅へ傾倒位する過程で、禅的な美意識をお茶の世界に融合していこうとしたことが伺える。当時はこういった趣向は異端であった。

利休と藪内剣仲は深い交流があったそうで、寒い日に藪内剣仲に利休が招かれた際に藪内剣仲が利休を迎えに出て顔を合わせ、利休が懐で温めていた暖を取るための香炉を藪内剣仲に渡したところ、藪内剣仲も同じように(何も示し合わせていないのに)懐で温めていた香炉を利休に渡し、利休がいたく感動したというエピソードは興味深い。現代の茶道の形式にも、ホスト側とゲスト側で物を交換するというスタイルが残っている。

利休が秀吉に切腹を命じられる前に、堺へ蟄居(京都から追い払われる)を命じられた際に、古田織部と細川三斎が利休を見送りに行ったというエピソードは有名だが、織部武家の茶道として利休の茶の湯を進化させ、細川三斎は利休への尊敬を保ち続け、利休から三斎へ送られた燈籠に春夏秋冬昼夜問わず火をともし続けるなど、利休の茶の湯を守ろうとした感が伺える。細川三斎は利休が切腹するさいに家臣ずてでメッセージを送っている。利休も三斎も墓石が燈籠らしい(知らなかった)

古田織部に関してはその後利休と同じように家康から切腹を命じられるわけだが、そのせいか利休七哲の中で最も無能と書かれていたり(千家的にはお茶を守るために織部を貶めざるを得なかった事情がありそう)なんだか散々である。いい感じの竹編みの花入れを床の間に掛けた茶会に古田織部が招かれたところ、織部は美しさに感動してテンションが上りすぎて花入れを持って返ってしまったというエピソードがあるらしい。「へうげもの」にかかれているメチャクチャな織部もあながち間違った像ではないのだ。

『南方録』にみる露地の思想―紹鴎と利休の節義について

利休が武野紹鴎流のわび茶的な要素を露地にこそ取り入れているという論考(確か)なかなか面白かった。 露地に注目してお茶を見ることは普段殆ど無い(なぜなら露地があんまりないからだ笑)

高山右近と利休とキリシタン……五野井隆史

キリスト教の清貧の思想と利休のわびの美意識がうまく合致して、右近と利休の間の深い精神的交流があったのではという論考。そもそも利休七哲の中にキリシタン大名が多いという事実に気づいていなかったが、キリスト教的な世界観とお茶の世界観が弟子を通じて若干混ざりあったというのはあながち否定できない要素に思える。右近なんかは狭く暗い茶室に籠ってマリア像に祈りを捧げていたわけなので。

所感

道具の好みの変遷、周辺の人々との交流も含めて利休の全体像をうまく紐解くための見取り図を提供してくれている感じがありがたかっった。 交友関係を鑑みるに、藪内流と三斎流と現在の裏千家のお点前に違いを見ていくと勉強になりそうだ。 利休の好み道具は禅的美意識が強く出すぎているので、利休的な道具の取り合わせはよほどうまくやらないと葬式感が出てしまいそうで、お茶会などでやるのはなかなか上級テクが必要そうだと感じた(逆に言えば、うまく取りわせることができれば極わびの空間ができあがるわけである)

茶道精進しないとな。いい本でした。

*1:とは言え淡交社から出版されているものなので、大本営感はある。おっと誰か来たみたいだ

ひとり空間の都市論 (2/200)

2019年は読んだ本の読書記録をつけることにしたので、暇を見つけては整理して書いていくことにする。 (読んだ本、記録つけないとアホなので忘れちゃうしね)

読書の動機

東京という都市に住むにあたって、都市の中でどういうものが流行し、あるいはどういうものは廃れていくのかを考える上で都市と人間の関係について知るために本書を購入。 サウナにしろムーディーなバーにしろ、常時接続でいつでも他人の目を意識しなければ行けない日常の中で「ひとり」の行動はどう変わるのか、モバイルデバイスの普及とともにそのような「ひとり」の行動がどのように変化/進化してきたかを考えるきっかけにしたいと感じた。都市に人口が集約されていくことは経済合理性の観点から世界中で不可避の流れになると思われるが、テクノロジーは人間のどういう性質を、その性質によって引き起こされるどのような問題を、どのような形で解決していくのだろうか?

概容

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同調圧力が強い日本社会における「ひとり」。彼らが異質な存在としてみなされる一方で、現実の日本の都市には、カプセルホテル、ひとりカラオケ、ひとり焼肉店など、ひとり客向けの商業施設が溢れかえっている。そもそも孤独と自由が背中合わせの都市生活では、「ひとり」でいることこそ、歴史的にも“正常”だったはずだ。今日ではさらに、「ひとり」が存在する空間は、モバイル・メディアの普及を受けて増殖し、新しい形態へと進化を遂げつつある。その新しい特性とは何か。「みんな・絆・コミュニティ」へと世論が傾くいま、ひとり空間の現況と可能性を、いまいちど問い直す。

目次

  • 序章 『孤独のグルメ』の都市論
  • 第1章 ひとり・ひとり空間・都市
  • 第2章 住まい―単身者とモビリティ
  • 第3章 飲食店・宿泊施設―日本的都市風景
  • 第4章 モバイル・メディア―ウォークマンからスマートフォンまで
  • 終章 都市の「ひとり空間」の行方

各章

序章 『孤独のグルメ』の都市論

  • スーツ=生産者の記号をまとった主人公が都市の機能に依存しながら、都市の中でおひとりさまで食事を堪能するある種の都市論としての「孤独のグルメ
  • 社会分業 / 遊歩者 都市と個人化にまつわる現象
  • 移動時間/スキマ時間の空間下=中間空間の台頭 / 遭遇期待値 < 検索期待値
  • 主人公の行動は、インターネットがもたらした行動様式と対極である一方で、「つぶやき」やSNSへの画像共有的な類似性も持っている
    • ゴローちゃんのつぶやき / 俯瞰で描かれた飯 = Twitter / Instagram

井の頭に見られる、都市的生活様式とは何か。それは第一に、食という行為を都市の消費空間に外部依存していること。第二に、つねに移動し続けていること。第三に、周囲の人びとから匿名性を保ち、誰からも素性を特定されることなく、周囲を観察する技法を身につけていることである。 (南後由和. ひとり空間の都市論 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.172-175). Kindle 版. )

この視点で孤独のグルメを読んだことなかった。

その住まう様々な単身者、単身者だけではなく「ひとり」が利用する場所が集約された都市。 東京は他の都市に比べても「ひとり」向けの施設が多い都市なのだろう。

第1章 ひとり・ひとり空間・都市

  • ひとりとは?
    • 数的単位 + 状態

状態とは、ある時点における、人や物事のあり様である。状態とは、一時的もしくは中長期的なものではあるが、永続的なものではない。このことから、「状態としてのひとり」とは、一定の時間、家族、学校や職場などの帰属先の集団・組織から離れて、ひとりであるあり様を指す。たとえば、家族と一緒に暮らしている人でも、自分だけの時間が欲しくて、家族から離れ、「ひとり」だけで過ごす時間は、ひとりの状態である。携帯音楽プレイヤーの音源をイヤホンで聞きながら移動し、雑踏のなかで自分だけの世界にひたる時間も、ひとりの状態だ。(南後由和. ひとり空間の都市論 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.425-430). Kindle 版. )

ルフェーヴルの空間分類

  1. 物理的な形態を伴う次元(実際の空間)
  2. 頭の中抽象的に思考される次元(設計図など)
  3. 人々が身体を介して1を「使う」「経験する」事によって2の意味を書き換え、新たな意味を付与する次元

ひとりの状態を介して経験される空間がひとり空間であり、ひとりになることによってたち現れる空間の事を言う。 ひとり空間には建築的側面(物理的空間的な特性)と「使う」・「経験する」側面が存在する。

ジンメルの論考によれば、都市の住民は変化の激しい都市から絶え間ない神経的刺激を受け続け、「都市の作法」=「都市の刺激や変化から距離を取り、没個性的で非人格的な存在として他者と接する態度」を身につけるとした。 お互いにお互いを見知らぬ他者と考えるという点では「匿名性』を持っていると言える。

こう言われると、満員電車など公共空間でスマホをいじることは刺激から距離を取るための人間の自然な行動なのだなと理解できる。 (スキマ時間を潰したいとかではなく)、歩きスマホもおそらく、あるきながらにして都市の刺激から距離を取りたいという欲求から自然に出る行動に思える。

ジンメルはお互いに「匿名である」人々がお互いを信頼に足るものとして生活を営む上で、 * 貨幣経済 * 時間的正確さの遵守 という計算可能性が大切だと論じたらしい。

同じロジックをブロックチェーンにおける、計算(可能性)による「信頼」の創出/担保という話に持っていけないのかなとふと 都市がもたらす「ひとり状態」はしがらみからの解放という「自由」をもたらしている。 「ひとり状態」は精神的な距離を取ることによって生まれる。

都市において「ひとり空間」を手に入れるためには、ゴローちゃんのように外部サービスに依存せざるを得ない。

第2章 住まい―単身者とモビリティ

  • 方丈庵 / 自分の姿を隠したまま周囲を視ることのできる空間
  • 住まいのモビリティ
  • 見せる個室への変化

    第3章 飲食店・宿泊施設―日本的都市風景

  • 個室の商業空間の増殖
  • 極小空間にみる畳の美学
    • 座具にも寝具にも使える敷物をユニット化して敷き詰めたものとしての畳
    • 日本の縮み志向の空間化

      第4章 モバイル・メディア―ウォークマンからスマートフォンまで

  • メディアを介したひとり空間
  • メディアを利用することによる「見えない仕切り」
  • スマートフォンがもたらした「ひとり空間」の変化
    • 見てほしいように見られているか不安 / SNS映え / 相互監視 / ひとりになりたいという切断志向
  • パーソナライズする / される世界
    • 私 -> 情報 < 情報 -> 私
    • 情報空間の商品化
  • 匿名性と異質性の減退
    • フィルターバブルにおる同質性
    • アーバニズムの条件としての「異質性」の減退
  • マッチング精度向上
    • 検索可能性> 遭遇可能性 ( memo : 検索可能性という意味でも同質性は高まっていると言えそうだ)
    • 浅く広い連帯感
    • たまり場の概念の変化
  • 中間空間の成長

終章 都市の「ひとり空間」の行方

  • 消費を媒介することでしかつながらなかった「ひとり」同士が「生産」に媒介された結びつきをもち「匿名的・一回性」な関係から「顕名的・持続的」な関係にシフトしうる可能性
  • スキルを持つもの / 持たざるものの格差の発生、関係は引き続きいつでも解消可能

アタマの整理

  • 「たまり場」の概念がモバイルデバイスの普及とともにどう変化してきたかは気になる
    • 良いたまり場 / 悪いたまり場
    • x 商業的 / 概念的
  • 計算可能性による匿名の人間同士の信頼性の担保という概念は面白そうなのでジンメルはよんでみようかな(と思う)
  • 茶道とからめて、極小空間としての畳にもう少し視点を向けてみよう
  • ひとり空間としてのサウナ(ぁ)

ファクトフルネス (1/200) @ 2019

2019年は生きるため呼吸をするように何かを書き残していく年間にしたいので、ブログを再開することにする。 日本語訳が出る前に英語で読もうと思い意気込んでいたが、結局日本語で読んでしまった本書

本の概容

https://www.amazon.co.jp/dp/B07LG7TG5Nwww.amazon.co.jp

ファクトフルネスとは――データや事実にもとづき、世界を読み解く習慣。賢い人ほどとらわれる10の思い込みから解放されれば、癒され、世界を正しく見るスキルが身につく。 世界を正しく見る、誰もが身につけておくべき習慣でありスキル、「ファクトフルネス」を解説しよう。

世界で100万部の大ベストセラー! 40カ国で発行予定の話題作、待望の日本上陸

ビル・ゲイツバラク・オバマアメリカ大統領も大絶賛! 「名作中の名作。世界を正しく見るために欠かせない一冊だ」―ビル・ゲイツ 「思い込みではなく、事実をもとに行動すれば、人類はもっと前に進める。そんな希望を抱かせてくれる本」―バラク・オバマアメリカ大統領

特にビル・ゲイツは、2018年にアメリカの大学を卒業した学生のうち、希望者全員にこの本をプレゼントしたほど。

3行で書くと

  • よくある思い込みの類型を実例と共に紹介し、数字を元に正しく世界を捉えることの需要さを説く
    • 思い込みがあることで、ランダムに問いかけに回答するチンパンジーよりも正解できない状態になる(「チンパンジーよりも正解できない」という例を著者がよく用いる
  • 世界が確実に前進し良くなっていること、根拠のない恐怖は退治するべきであることを説く
  • 「ファクトフルネス」を習慣化するためにどうすればいいかの方法論を紹介する

各章概容

1章:分断本能

  • 「先進国」「途上国」の間に大きな断絶が存在すると勘違いしがち(一方では幸せな暮らし、もう一方では圧倒的に生活が貧しいなど)
  • 大体の人々は中間的な生活をしている(4段階に所得レベルを分類すると、最低レベルの人口は全体の1/7、200年前は全体の85%だった)
  • ドラマチックな本能(分断されたセグメント同士が対立していたりするとより認識が歪む)
  • 本能を刺激する話は、わかりやすく伝わりやすい
  • (個人的な感想)サービス開発において、ヘビーユーザと超ライトユーザの二項対立ばかりを念頭に置いてしまったりすると危険な気がする
  • 「平均の比較への注意」・「極端な数字の比較に注意」・「上からの景色による抽象化に注意」

2章:ネガティブ本能

  • 「世界はどんどん悪くなっている」と思い込みがち
  • 減り続けている16の悪いこと(with 件数の年次変化のグラフ)
    * 合法的な奴隷制度 / 石油流出事故 / HIV感染 / 高価なソーラーパネル / 乳幼児の死亡率 / 戦死者数 / 有鉛ガソリン / 死刑制度がある国の数(これは悪いことなのか)
    * 飛行機事故の死者数 / 大気汚染 / 天然痘 / オゾン層の破壊 / 飢餓 / 核兵器 / 大気汚染
    
  • 増え続けている16の良いこと
    • 新しい映画 / 女子教育 / 電気の利用 / 絶滅危惧種保全 / 携帯電話 / 安全な飲料水 / インターネット / 予防接種
    • etc
  • 考えずに感じているだけだと、ネガティブな報道とかによって「課題が山ほどある」と認識してしまう。
  • 「悪い」と「良くなっている」が両立しないと勘違いしやすい
  • 良い出来事のほうがニュースになりずらい
  • ゆっくりとした進歩はニュースになりづらい
  • 悪いニュースが増える != 悪い出来事が増える
  • 過去は美化されやすい

3章: 直線本能

  • 予測を直線的にしてしまいがち
  • 増加も減少もいつかはサチる(平衡状態に達する)
  • 見えているのがグラフの土の部分なのか、横軸の変化とともに縦軸がどうなるかを冷静に判断する

4章: 恐怖本能

  • 生活水準がレベル4の国では、テロによる者数は減っている
    • (個人メモ)水準が低い国ほどテロにさらされているとしたら、「虐殺器官」的な分断感がある
  • 恐怖 != 危険
  • リスクも質と量の掛け算で決まる

5章: 過大視本能

  • 比較と比率計算(割合で考える)で過大視を防ぐ
  • 方法論としての80:20ルール
    • 全体の8割を占めるものは何か
  • ひとりあたり○○で考える
    • (個人メモ)一人あたりGDPで見ると日本が貧しいという話を思い出した。
  • 比較の軸
    • 比べるべき数字はなにか
    • 経年変化
    • 割り算の基準(ひとりあたり)
    • 地域性があるのかどうか?

6章: パターン化本能

  • 1つの例が全てに当てはまるという思い込み
  • ステレオタイプ的なやつ
    • 分断本能 -> 「私達」vs「あの人達」 => 「あの人達はこう」というステレオタイプ(認識違いのコンボ)
  • 自分の中にある分類に注意する
    • 同じ集団の中の違い / 過半数への注意 / 自分が「普通」だと決めつけないこと / 一つのグループを他のグループに当てはめていないか気をつける / 同じ集団の中の違い vs 違う集団の中の共通点
  • 理由を見出す
    • なぜ家が立てかけのほうが合理的なのか

7章 :宿命本能

  • 「変わらない」という思い込み
  • ゆっくりした変化(見えづらい)でも少しずつ変わっているということを意識する
  • 小さな進歩を追いかける
  • 文化が変わった例を集める(昔から変わらないといわれたら、反例をあげてみる)

8章: 単純化本能

  • 子供にトンカチをもたせると、なんでも釘に見える
  • 専門知識が邪魔をして、実際に効果のある解決策が見えなくなる
  • 一つの視点だけでは世界を理解できない
  • 何でもかんでもトンカチで叩くのをやめる
  • ✗知ったかぶり
  • 単純なものの見方を警戒する
  • 自分の考え方を検証する

9章: 犯人探し本能

  • 誰かが見せしめとばかりに責められていたら、それに気づくほうが良い
  • 犯人でなく、原因を探す
  • ヒーローでなく、システム(社会を機能させている仕組み)にめを向ける

10章: 焦り本能

  • ほうっておくと大変なことになる、と過剰に反応しない

感想

プロダクトマネージャー的に自分が働いていたときのことを思い出しながら読むことで、正直かなり耳が痛い部分が多かった。宿命本能、分断本能、焦り本能とかはサービス運営をしていると陥りがちじゃないかな。 本書をプロダクト開発版にするだけで相当面白い書籍が書ける気がしている。もちろん、経営であるとかチーム運営上は「焦ること」であるとか「類型化して考えること」は非常に大切なことなのだが、行き過ぎると現実が見えなくなる。何かを捉える上で難しいのは、時間軸を事実に基づいて捉えることだと感じた。2,3,10年スケールのことを自分のこととして捉えること、小さな変化が物事の改善を進めていくが、それがいつサチるのか、一年続くとどう世界が改善するのか、時間の軸が自分が想像できる範囲からずれると一気に思考が固まってしまいがちだし、ドラマチックな分断本能に身を任せてしまいがちである。 (自分の小ささを自覚する瞬間でもある)

2017年の振り返りと2018年について

2017年の振り返り

技術目 / お仕事面

  • スタートアップしてた
    • ユーザインタビュー / リーンスタートアップ的な手法をトライしまくった
    • React使ってひたすらSPA作りしてました。
  • フリーランスしてました
    • デザイン作ったりしてました
    • Rails書いてました
    • 何故かマネジメントしてました
    • 何故か技術戦略考えてました
  • 某社へ

スタートアップをやっていたものの、諸般の事情により辞めたのが昨年の一番の動きでしょうか。 - 適切にユーザの課題を捉えること - 問題の存在証明 - 問題のペインポイントの重み付け - 解決の優先度付 - ビジネス上のインパクトの見積もり - マーケットへの入り方の戦略を考える - 誰からカネをもらってどこに価値を届けるか - 競合に対して不平等なくらい有利な立場に立てるか - 問題を解決するとは?

この辺考え続けながらコードをひたすら書いたり、ひたすら実際ユーザに会ったりしてました。 PSFとPMFをひたすら考えながら、プロダクト改善をやり続けていくというのが スタートアップをやることとイコールであるなと。 逆に、これをやらない人とはやりたくないという感想。 ・自分の頭の中の仮説が正しいのかを常に検証し続けられるかどうか この検証回数の多い少ないで正しい方向を向けるかどうかが決まる。 正しい方向を向けなければ社会に無価値を生み出すことしかできない。

検証回数が少なければ、改善回数も必然的に少なくなるので、勝つ確率は限りなく低くなる。

技術面以外

  • 英語を仕事で使いました
  • 中国語をやっています

小説

人に関する描写、舞台設定に関する描写について少し気を使ってかけるようになったかな?という感じ。 下記続けることでしか物語を生み出すことはできないと思うので、今年は文学賞応募ドリブン執筆で沢山の物語を生み出したい。 (そして、昔から書いている長編にケリを付けて、リライトに入りたい)

2018年目標

技術面の定量的目標設定 - 9登壇 二月に一回以上は登壇する
- ジャンルはブロックチェーンとGo+ウェブフロントエンド
- OSSへのコントリビュート増やすお
- 技術戦略 / 経営戦略 / 財務 この辺基本レベルで考える力をつけるよ
- デザインイケてる!と twitterで言ってもらえるくらいのデザインイケてるプロダクト2本くらいリリースするよ!

  • 文学賞 4作品くらい応募したい  季節ごとに1つ?秋口に多いので戦略立案中
  • 毎日書く

    • noteの連載頻度をあげます
  • HSK4級とるぞ

  • 英語の技術ブログを適当に始める

今年も前に進むためにガンバリマス。

今年の抱負は不動心

糞映画を見てしまったので感想を書いておく 「ぼくらの亡命」

★1つを迷わずにつけたくなるような糞映画を見たのは久しぶりだ。ただでさえ少ない観客の1人が途中で帰っていったのも含めてエンターテイメントだった。 平たく言って、控えめに言ってカネを払う価値はない。 見始めた映画のサンクコストという同しようもない概念が浮上するレベルの映画だった。

ourescape.makotoyacoltd.jp

eiga.com

何故そんな糞映画を率先して(公開日に)見に行ったのか?と問われると答えにつまる。たまたまtwitterで見かけて見にいきたくなったから。としか答えられない。

作中のホームレスが(何らかの理由で社会から疎外され)変な(自分を利用した男を刺してしまう)女と北海道だか何処かに逃げ、何故か(女の祖父の出身だかなんだかである)国後島 を目指す、という話だが、終始テーマがハッキリしない。 国後島や何らかのデモ@新宿の映像を持ち出して国家というものを意識させつつも、男女が逃げることになった理由とは全く関係しない。 登場人物たちが国家に依って不条理に疎外されているのであれば持ち出す意味のもあるし、表現としては理解できなくもないが。謎である。意図が見えない。

そもそも、ホームレスだの引きこもりだのというのはそういう状況に至っている個々人に個々人特有のそれなりの重さのストーリーが存在しているはずであり。 悪い状況に置かれている=可哀想=その人の外部にある何者かが端的に悪いという枠組みでは描けないはずである。 小学生の作文とか、悪い状況に置かれている個々人の思いの表出としてだけそういう枠組みは許される。 映画を描く人間、演じる役者、それを見る観客が単純な枠組みに乗っかるとすれば、端的に言って「幼稚」である。 僕がそういう捉え方をしている前提で話をすすめると、この映画の登場人物たちの背景については非常に断片的にしか描かれない。 (何らかの理由で父をなくしてホームレスになっている、程度のことしかわからない) 断片的にしか描かれない故に、男が女に行為を持つ理由も全くわからない。必然性がない。なぜその人なのか?という点で、理解ができない。 「女性と関係を持ったことがないから、たまたま出会ったある人に自分でもわからないくらいの好意を抱いてしまう」 位の背景で男の女に対する愛が描かれる。その描き方は苦痛以外の何物でもない。なぜなら登場人物の背景にねざさない。監督だか脚本だかの一方的な価値観の押し付けだからだ。 弱者を描くくせに物語を描かず、一方的な価値観の押し付けに終止する。 それは弱者をある意味食い物にして、自分の表現を行っているということになり、最低だ。吐き気がする。 演じている役者も含め、こんな表現に関係した全ての人間の神経を疑う。 こういう表現もある。とかそういうレベルではない。

表層上の同一性が担保されているせいで明示的な「疎外」の表現が弱い日本だからこそこういう「創造力の欠如」がまかり通るのかもしれない。 この作品が公開された事自体が一種の問題提起である。

そしてそれ以外の価値はまったくない。 クソ。

クソであることを書かないと溜飲を下げることができないぐらいひどかった。

2015年振り返り

簡単なまとめ

2015年、自分にとってはいろいろなことがあった年だった。前半の半年は迷走の極み、モチベーション低下の極みで、後半で何だかんだ成長できたと思うので、自分の進捗としてはマイナスになってはいないかなと思う今日この頃。 転職x2、まさか今の職場に自分がいるなんて去年の1月には全く思っていなかった。 エンジニアとしての迷走が引き金となった転職であったし、そこから学んだことも大きかった。 エンジニアって技術面だけじゃないなと(特に)思い知らされた1年であったし、それを踏まえた上でキャリアを考える大きなきっかけになったように思う。

転職その1までの流れ + 雑感

思い立ったように2月に退職することを決めた。3/14(か3/11)を最終出社日として、ぼくはDeという会社を辞めることに。 なんだろう、自分的にはあまり多くの転職理由を覚えていない(それだけ薄っぺらかったのかもしれない)なにせメモすら残っていない。 書きながら思い出せる範囲で強いて言うなら下記であろうか

  • ソーシャルゲーム開発への疲れ
  • キャリアを考えたときにゲームを作り続けたくはない
  • Modernな開発体制で開発したい
  • 0 -> 1で開発体制を整えてみたい(確立された工場で働くことへの疲れ)

これといって理由は思い浮かばない。所属していたチームは素晴らしく開発のしやすいチームだった。積極的に生み出そうとしなければデスマーチも起こらないチームで、企画者も周りのエンジニアも意欲が高くて日々楽しく過ごせるチームであった。ではなぜやめたんだという話にもちろんなってしかるべきだが、わりと勢いでやめてしまったところがあるので、今になるとあまり思い出せないのが実情だ。 しかし、一つ言えるのは、自分にとって事業ドメインがわりと大切だったということだろうか。

  • 「ガチャのこの演出が気持ちいい」
  • 「しがらみ要素が大切」

とか言われても??となる状態では開発していても楽しいものじゃない。理解不能なものの相手をするのはそれなりに疲れるし、時間的コストがかかる。理解している振りをしているのも気味が悪いし、居心地も悪い。ゲーム作りにおいては、ユーザは実利でなくて体験だけを求めてきているのだから、 本当の本当にUXが大切で、それ故、施策設計等は本当に頭を使うことであり刺激的で、勉強になるのは認めよう。 しかし、いかんせん根本のところの感情が理解できないようではどうしようもなかった。

「じゃあお前、理解できないものは作れないのか?想像力が足りないんじゃないの?」

と言われればある程度それは当たっていると思う。人間、想像力には限界があるし、個人のレベルでは想像できないものは作れないのだ。インドのストリートチルドレン向けのサービスが作れるだろうか?アフリカの女性向けのサービスが作れるだろうか。作れないだろう。それは問題や課題が血肉化されていないからで、想像力が到底及ばないからだ。 問題や課題を血肉化するためにはある程度の体験が必要であり、我らがソーシャルゲーム開発においては実際にゲームをプレイすることになるわけだが、これが際限なく時間と金を使う作業である。そのプロセスをうまく踏めなかったというのが大きいだろうか。 書いていて思ったがこの辺りの話は非常に難しい。

「やりたくなくても金もらってるんだからやれよ」

という話もあるし

「地道に金と時間を使う努力をしなければ成長はない」

とかそういう話もあると思う。ぼくの答えとしては「今はやりたくない」これに尽きる。

もう一つ、ある程度名のある組織に居続けることが自分の生き方に合わないような気がした。それが思い切りの良さ(結果的には大失敗だったが) につながったと思う。Deという会社は組織として良いところも悪いところも今思えばたくさんあったと思うし、それでも最高の職場だったと思う。 今の自分が戻ったらもっと視野を広げて働くことができると思う。ただ、今じゃない。 色々と勉強させてもらった同期と諸先輩方には感謝の気持ちしかありません(Hさん, Tさん, Hさん、Tさん、Tくん、Sくん、Gさん、Uさん、Kくん、ありがとうございました)

転職その1後の日々

わりと黒歴史としたい転職その1後の日々だ。はっきり言ってクズ以下の生活をしていたということに尽きる。

  • 小さい会社=属人性の高い組織なので、組織の属性は大きく人に依存する(特に経営陣?)
  • 変化への柔軟性が大きく人に依存する
  • 学生ベンチャー上がりで受託を経験している会社は危険 = プロの仕事ができない / 労働集約型になりがち
  • 価格以外の差別化ができるのか否かは非常に大切 = 技術的な優位性がどれくらいあるか
  • 会社の空気感も圧倒的に人(だけ)が決める。
  • プライドが高い(すぎる)連中と付き合うのは時間の無駄
  • 学歴の話とか「〜大だからちょっとあれでしょ」みたいな話がでる時点でかなりやばい
  • 手柄のとりあいみたいになっているチームはやばい = 「だれが案件とってきてるんだっけ?」みたいな
  • クソコードは増え続けると手に負えなくなる = 基本のキがわかってない巨大なコードベースから放たれる瘴気はやばい
  • Railsって(クソでもウェブアプリ作れちゃうから)最高だし最低だ
  • データを扱うならデータそのものもデータを処理するコードもまともに管理できないと死が待ってる
  • 外国人を納得させるのはけっこう大変
  • 他社システム由来のデータを使って解析し、結果を他社システムに組み込むのって本当に大変(ネゴがめんどい)

まあ今になるとネガティブな発言ばかりでてしまいますが...、小さい組織で働くのは本当に大変だなと。

手伝っている会社の成長

festyという友達がやっているサービスを手伝っています。 festy.jp 創業者はGREEの同期同士の二人、副社長が高校の同期の会社です。創業くらいのタイミングから手伝わせてもらっています。 創業メンバーの成長や組織としての成長、ピボットも含めたサービスの方向性の転換など色々なことが起こるのを見てきました。スタートアップするのは大変なんだなと思いながら、2015年5月くらいからWebで伸ばしていく方針に大きく転換をして(アプリをクローズし...)グングンとPV数が成長し始めました。 僕はGoogle Analyticsを見る権限もいただいているので、週次でサービスが成長して行っているのを数字で見ることができました。 PVという非常にナイーブな形式ですが、ユーザの動きが実際に見えるというのは何にも代えがたい喜びでした。festyの成長を見ることで「やっぱり腐っていてはダメだ、ユーザの動きと真っ向勝負できる現場に早く立ち戻らないと未来がなくなる」と感じて、2社目のスタートアップを離脱する決意をしたのを思い出します。

いい組織で泥臭くやれば必ず成長する

こんなことを学ばせてもらったかなと思います。 逆に良くない人が集まっている組織は停滞感が満ち溢れるのが世の常かなと思いました。 組織と人って本当に大事だなと、長く働いている人からすれば当たり前のことに気づけた2015年でした。

eurekaへのJOIN

7月に元Deの同期のOくんの誘いを受けてeurekaのCTOとCEOと面談させていただき、8月からeurekaへJOINしました。 役員犬のジョブさんの直属の部下をやっています(冗談です) 非常に若い組織だし、僕より若いエンジニアたちの学びへの貪欲さ、僕より少しだけ上のエンジニアの方々の圧倒的にできる感じ、刺激的です。 自分も成長しなければという気持ちを駆り立てられるし、社内は非常にフラットで、役員陣とも本当にざっくばらんに話せるなという所感です。 働き始めてもうすでに半年くらいが経過していますが、今は最高に楽しめています。

キャリアについて

キャリアについては色々悩みながら歩んでいくしかないかなと思っていますが、ある程度の方向性は固まってきたかなと思います。 まず前提としてどういうキャリアを歩むにしろ

技術的専門性を磨き続ける必要がある

ことは前提だと思います。 エキスパート方面を目指すのであれば、名だたる世界の大企業、GとかTとかMSとかFとかに入社することができて一線で活躍できるレベルを目指さなくては生存戦略的には間違っているのだろうなと思います。生半可にアルゴリズムを勉強したりするのは自殺行為かと。アルゴリズマーになるためには理論的にしっかりした素地と、それを実践できる場所でのある程度の経験が必要かなと思います。

では僕のような下々の人間はどう生存すればいいのか、 アルゴリズムの深淵に近い部分は(興味を持ちつつも)うまく避けて通るとして...

僕の答えとしては、

エンジニア兼プロダクトオーナーを目指す

ということでした。自分の書いたコードをサービスにある程度打ち込みつつ、パフォチューをして、売上の数字を見て、施策をバカスカ提案していく。 2015年色々場数を踏むことで思ったのは、結局自分がやりたいのは物を作ることだったということです。物を作りたいという確固たる考えがあれば、ものづくりに関係する全ての工程を理解して、全てにコミットしたくなる。(クソ)コードをひたすら本番環境に打ち込んで給料をもらいたいぜと思っていた頃に比べるとそこそこ視野が広がったかとは思います。2016年は一流のエンジニアかつ一流のプロダクトオーナーになれるように精進したいと思っています。

ここ最近感じている違和感

  • ユーザのことをお客様と呼ぶ問題

まとまらない

旅行

写真の整理をしたので旅行記をそのうちアップデートしたいと思います。 2016年はアフリカと中米もしくは中央アジアかな...イギリスも行きたい。 旅行先はまだまだブレブレです。 バックパックを背負えばまだまだバックパッカーの心に戻れるのです。